想像力体系


「想像力が足りない」を罵倒語に使うのはどうか

・・・とのことである。私は”想像力が足りてない”とあまたの文章を読んでいてよくおもうことがある。そう思うのはその”想像力”の部分がなにを意味しているのかあまり考えていない状態でのおおまかな反応。よくよく考えてみるとその理由が明白になってきたりするのだが、まあ、考えるのが面倒なときもある。すると”想像力が足りてないんですね”でストップする。それ以上細かに腑分けして、こんな感じでどうでしょう、と相手の想像力のどこが足りないのかを説明してさらにアシストするがアホ臭くなってしまうのだな。すべての状況において他人に優しくするのは難しいのである。だから私の場合この言葉を使うのは罵倒というよりも諦念に近い。
関連するな、と思ったのは昨日だったかのカマヤンさんの記事で、大人になっても物心がついていない人が結構いるのではないか、というとてもおもしろい説明があって、そうだよなあ、と思った。理系の大学院生になっても結構いたりするタイプである。自己無謬性、相対化できていない考え方、抽象化の乏しい意見などなど。私からしたら”想像力が足りてない”の範疇に入る。上のnisemono_san氏の説明では想像力体系として同じレベルにさまざまな体系が配置されている、みたいな感じなのだが、体系なので大きい小さいがある。リーチングの強度に差がでてくるのである。

なお、私がこれまでに書いた中で”想像力がたりない”的な言葉を使っているものは以下のごとし。
id:kmiura:20041007#p1 (情報からの逃避行動)
id:kmiura:20041220#p2 (OECD学力調査)
id:kmiura:20050301 (自分の想像力)
id:kmiura:20051110#p1 (想像力の想像)