”志”は理念ではない

安倍晋三の政策は、日米軍事同盟の実質化、すなわち日本がブレア政権下のイギリスのようになることを中心にすえているとを念頭に眺めると実にわかりやすい。この方針は1960年5月に警官とやくざを国会に招き入れて新安保の強行採決をした祖父・岸信介の遺志を直接継ぐものでもあるので、まったく単純明快というか、わかりやすすぎるほどである。具体的には憲法改正を伴う日本の軍事立国化が目標となる。その片翼として教育基本法の改正が重要な目標として掲げられているのは周知のとうり。06年9月29日付の所信表明演説デファクト施政方針演説)では次の部分だ。

 私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。
 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。吉田松陰は、わずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が「明治維新胎動の地」となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。
 まず、教育基本法案の早期成立を期します。
 すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します。教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します。
 こうした施策を推進するため、我が国の叡智を結集して、内閣に「教育再生会議」を早急に発足させます。
第165回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説 抜粋

私の小さな疑問は、はたしてこの演説にあるような目的のために教育基本法はそぐわない内容であるのかどうか、ということだ。そこで教育基本法を眺めてみた。実のところ極めて短くまとまった、理念を明快に示した内容であって、たった11条の法律である。果たして改正ないし改定が必要なのか私にははなはだ疑問だ。教育の目的は第一条に書かれている。

 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
教育基本法

この目的と、安倍新首相の”教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです”とどこがどうすりあわないのか、私には理解できない。”志”や”品格”がない、という見方もできるかもしれないが、”志”は基本法の文章の方によっぽど具体的かつ明快に書かれている。
問題は我々のほうにもある。”志のある国民”という言葉を聞いたときに、はあ、そうですね、となんとなく思ってしまうことだ。志をもつこと、は態度であってその内容を説明しない。でも、「志をもつ」と説明されると、なんか意味があるような気がしてしまうのが、日本語マジックなのである。それに続く「吉田松陰」云々の説明にしても、”志ある人間”という生き方を示すだけで、その理念およびなすべき目標を明確にしない。あるいは品格ある国家、もそうだ。品格とはいったい何なのか。私は国家を機能としてとらえる。機能に下品も上品もない。あるのはスペックだけである。
続けて、安倍新首相の演説はこう続く。”家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます”となっている。”これまた、私には、目下の教育基本法でなにが言い足りないのかよくわからない。唯一ひっかかるのは”規律ある人間”ぐらいか。でも、法律にある”自主精神に充ちた心身”でなにがいけないのかよくわからない。規律に従わなければ法が罰する。それを引き受けるのが自主精神であり、それが近代的な意味での”規律ある人間”だ。どのように教育基本法を改正しようというのか。
安倍新首相の「教育再生」具体策は最後の部分になる。しかし、これは教育理念ではない。教育基本法を改正する話ではなく、学校教育法改正等で充当可能な行政的な話である。
以上まとめれば、なぜ教育基本法を変えねばならぬのか、理解不能である。とはいえ軍事立国ということから敷衍すれば、教育基本法を変えることで国のために汗のみならず血を流す人間に教育したい、ということなのだろう。だとしたら、そう所信表明すべきである。なにが”志”だ。