文化の衝突スキームはまずいだろ。

ローマ法王の演説に対する批判が見当違いだ、と先日書いた。では私はなにを批判するか、というようなことを、書いていなかった。サイードを引用しながらなにかをしたためるのもなんか骨が折れるよなあ、とか思っていたのだが、そうこうしているうちに、日本語の公式翻訳が出たのをeireneさんのところで知った(id:eirene:20060921)。日本語で読むとなにやらいろいろ思い出すことがあって、そうした簡単なことを演説の次の部分に関して少し書いておこうかと思う。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm

そのために、理性と信仰を新たなしかたで総合しなければなりません。人が自らに命じた、経験的に反証可能な領域への理性の限定を克服し、理性を広い空間に向けて再び開放しなければなりません。この意味で、神学は、たんなる歴史的・人文科学的学科としてではなく、本来の意味での神学として、すなわち、信仰の合理性への問いとして、大学に属し、諸科学の大きな対話に加わるのです。

 このようにして初めて、わたしたちは、わたしたちが緊急に必要としている、諸文化と諸宗教との真の意味での対話を行うことが可能になるのです。西洋世界では、実証的な理性と、実証的な理性に基づく哲学のみが普遍性をもつという考えが、ずっと支配してきました。しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。

 神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。同時に、わたしが示そうと試みたように、本質的にプラトン主義的な要素をもつ近代自然科学の理性は、自らの内に、自分自身とその方法論的可能性を超えたものをめざす問いを含みもっています。近代自然科学の理性は、物質の合理的構造を、また、わたしたちの精神と自然を支配する合理的な構造の対応を、単純に所与として受け入れなければなりません。その方法論はこうした所与に基づいているからです。

 しかしながら、なぜそうしなければならないのかという問いは、依然として残ります。そして、自然科学はこの問いを、他の思考領域と思考様式に――すなわち哲学と神学に委ねなければなりません。哲学にとって、また、違うしかたではありますが、神学にとって、人類の宗教的諸伝統の、とりわけキリスト教信仰の、偉大な経験と洞察に耳を傾けることが、認識の源泉となります。こうした源泉を拒絶するなら、わたしたちは、許しがたいしかたで、自分たちが耳を傾け、応答する態度を制約することになります。

長い引用なのだが、気になるのは黒字の部分である。私がひどく違和感を感じる点だ。前後の文章は、どのような文脈なのか、ということを省略しないためにそのまま引用した。
"世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。"。
私はこのローマ法王自身による言明の部分がとても問題だと思う。仕事上中近東の人間から欧州の人間まで付き合いがあるのだが、こりゃいいすぎじゃないか、と思ってしまう。私は科学者だし、付き合っているのもまた同業者だから、あたりまえだろう、という反応もあるかもしれない。それを差し置いても、なにやらこの言いかただと、目下世間に流布されている”非理性的な自爆攻撃”に象徴されるようなイスラムのイメージを強化してやいないか、と私は思うのだ。*1なによりも、ローマ法王自身がこのように本気で思っているらしいことのほうが、私にはどうもやばいな、と思ってしまう。
というわけで、私なりの意見なのだが、決定的に脊髄反射でそりゃちがうだろ、と思うのが”神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。”もちろん、これは私のような科学至上主義な人間を指して言っている、ということになるのだが(宗教はサブカルチャーである、とは私は決して思わないけれど)、「信仰」の本質に基づく異文化の対話よりも、プラグマティックな科学の話のほうがユニバーサルだ、と私は思う。これはまさに経験主義、すなわち自分で体験したことに発する感覚なのだが、たとえば百をとくよりも、楽器で曲を一曲弾くほうが万人でなにかを共有することはより簡単で確実なのである。あるいはダンスなり絵画なりなんでもよい。異文化を超越するには、なにか強烈にノンバーバルなものが必要なのである。科学にもそれがある。実験で示されたら、ああ、そうですか、と納得するしかない。異文化の中をサバイバルしなくてはいけなかったユダヤ人たちが音楽ないし芸術ないし科学が得意、というのはこの現実的な効用があったからなのであって、同じように私は異文化の中で生きることは理屈やロゴスだけではとてもムズカシイ、と思う。
みもふたもない現実。ピアノの名プレイや、分子の示すパターン形成の背後に神がいるかもしれない。でも現実に起きたことは起きたことであり、その説明に神をもちだすか否か、宇宙人を持ちだすかどうか、はそれこそ個々の文化なのである。そしてみもふたもない現実の極端な先には核兵器がごろんところがっている。目下のイランと欧米との確執がそこにあったりするのであって、その確執の本質は決して信仰と理性の問題を中心としているわけではないのである。
なにやら浮上するのは、宗教の対立と対話という911以降フレームアップされたハンチントンのスキーム、”文化の衝突”土俵だ。実はそうではない、にも関わらず。そこに法王自身が頭をなやませる態度を見せる、というのは更なるフレームの強化にしかならないのである。

*1:あるいは、古の神風攻撃はどうだろうか。この言葉が1945年の春の発言であったら、それはもちろん、極東のかの国の神道をさして”彼らのもっとも深い確信”ということになるのである。帝国陸海軍の暴走とか失策はもちろん背後に消える。臣民ひとりひとりが、「神道に対する攻撃」と感じたから神風攻撃は発明されたのか。でも欧米の人たちはいまだにたぶん、そんな風に思っていると思う