エンゲル係数

ドイツ人数人を含めて飯のことなど雑談しているときに、「エンゲル係数が高い」という表現をしたら、揃って「??」と首を傾げたので、「もしかしてお前らドイツ人なのにエンゲル係数をしらんのか?」と少々戸惑いながら、手取りに占める食費の割合であって、生活状況の貧富の簡便な指標である*1、という説明をしたのだが、まったくピンと来ていないようで、だんだんと私は自信がなくなっていった。
うちで飯を食っていたときだったので、広辞苑を引っ張り出してきて、エンゲル係数の項目を開いた。エルンスト・エンゲル、ドイツ人の統計学者、と書いてある。いいか、19世紀のドイツ人の学者だぞ、なんで日本ではポピュラーなのに、ドイツ人が知らんのだ?と私は問うたのだが、知らないものは知らんということでその場はうやむやになり、なぜエンゲル係数が発祥地のドイツでは無名であり日本では日常語になるほど有名なのか、という私の疑問は解消されずに残っていた。・・のであるが、先日読んでいる、といった立花隆の「天皇と東大」を読んでいて、おそらくこれがその裏事情であろう、というくだりに出会うことができた。以下しばし非常に長い引用。(天皇と東大 上巻 p386ー8)

 その頃(引用注:1900年頃)、大学では社会問題や経済政策に関心を持つ、学生や教授たちが集まって、社会政策の勉強会をはじめていた。国際的にも、経済学は古典的な経済理論より、社会がかかわる経済問題にもっと関心を移すべしとする経済政策派がドイツを中心に勃興しつつあったが、その流れが日本にも生まれ明治二十九年には社会政策学会が正式に発足した。後に東大経済学部の中心となる高野岩三郎、矢作栄蔵、金井延、山崎寛次郎などみなそこに顔をそろえていた。
 明治三十二年、統計学を学ぶために留学を命ぜられた高野岩三郎*2が留学先にミュンヘン大学を選んだのは、そこがブレンターノなど、社会政策学派の有名教授たちが顔をそろえる大学だったからだ。
 高野はここで四年間、あらゆる社会政策の基礎となる統計学をみっちり学んだ。
 ミュンヘン大学留学中の明治三十三年(一九〇〇年)、高野は後の経済学部独立に大きなかかわりを持つ、ある役割を果たす。「エンゲル文庫」の買い入れである。
 「彼の渡欧前、指導教授の松崎蔵之助より、ヨーロッパで著名な統計学者の文庫が売りに出たら、大学に通知して欲しいと依頼を受けていた。ところがミュンヘン到着後まもなく、エルンスト・エンゲルス−『エンゲルの法則』で有名なあの統計学者の所蔵本が一括してライプチッヒのグスターフ・フォック書店から売りに出されていることを知った。彼はこれを松崎に通知し、大学から折り返し、ぜひそれを買い入れたいとの返事が来た。高野は書店と交渉をはじめたが、なかなかまとまらぬ。しかし菊池大麓総長も何とかこの話をまとめたいと心配したこともあって、ついに買入れと決まり、代金が高野のもとにとどけられた。」
三月二十八日、高野はミュンヘンを発ってライプチッヒにおもむいた。翌月七日、ついに書店との交渉がまとまった。エンゲル文庫全部、数千部におよぶドイツ大学ドクトル論文集、ドイツ帝国議会の議事録およびプロシア王国両院議事録等、送料保険料をふくめ一万四千マルクの買い物であった。(略)
 これらの図書は東大法科大学に送られ、これを機縁に大学内に経済統計学研究室が新設された。後の話になるが、帰朝した高野はその研究室の主任となって、エンゲル文庫を中心に図書の整備充実に骨を折り、ついにこれは国内有数の経済学、統計学の文庫にまで発展した」(大島清『高野岩三郎伝』
(引用者略)
 高野は帰国するとすぐに(明治三十六年)、このエンゲル文庫を学生にもどんどん使わせてゼミナールをはじめた。そういう環境で育ったのが、森戸辰男や大内兵衛の世代である。森戸は明治四十三年に一高から法科大学経済学科に進学したが、経済学科はまだできて三年目で、進学者はあまりなく、特に一高からの進学者は少なく、森戸以外にはいなかったという。森戸は入るとすぐに高野のゼミに入り、大正三年(一九一四年)に卒業すると、すぐに助手になり、二年後の大正五年には助教授になった。
 森戸は『経済学部五十年史』の「対談 森戸辰男先生 経済学部独立の前後」(聞きて・安藤良雄)の中で高野ゼミのことをこう語っている。
 「高野先生が日本人ではいちばん、(略)東京大学ではいちばんはじめに経済学部でセミナーを始めた。当時ヴェンティヒさんがドイツから来て、彼も入ってすぐにセミナーを始めました。これはプロセミナーといいましたが、私もそれに参加しましてね。そこでヴェンティッヒさんは私に労働者の家計というのを割り当てられました。そこえ総同盟の鈴木文治君から十数人の組合員に紹介してもらって、労働者の生活状況を調べて、報告したのでした。(略)そのときにエンゲルというドイツの統計学者のあの生計調査の結果がのっておりまして、それを参考にしながら、報告を書いたんです。そうしたらえらくほめてくれまして、ほうびにビュッヒャーの本をもらったりしたことを覚えております。それでエンゲルに関心をもつようになりまして、それが縁になって私がのちにエンゲルを翻訳するようになりました。偶然ですけれども、あとでおそらく話がでてくる経済統計研究室にはエンゲル文庫がありまして、それの整理をする仕事に私は参加しました。セミナーとエンゲルと統計研究室に、実は学生のときに私が結びつけられるということになりました。」

東大の経済学図書館の発祥はエンゲル文庫なのである。実に大きな役割を果たしている(ちなみに今の東大経済学分野ゲートウェイ・サービスは"Engel"と名づけられている)。これより、二十世紀初頭の日本の社会政策は、エルンスト・エンゲルが提唱した社会分析方法をいわば聖典のごとく扱っていた、と想像することができる。苦労して買い付け、日本まで船でえんやこらと輸送されたエンゲルの著作と所持していた一連の本はそれこそ根掘り葉掘り研究され、日本の学者の血となり肉となったのだった。「エンゲル係数」がかくも広く日本に流布したのはそうした背景があるのだろう。

グーグルサーチで調べると、

日本語
エンゲル係数 375,000件

ドイツ語
Engelskoeffizient  1,240件
"Engel Koeffizient" 136件
"Engels Koeffizient" 12件

英語
"Engel Coefficient" 9,950件
"Engel's Coefficient" 17,600件

  ↑の内訳
  ドイツドメイン
  "Engel Coefficient" site:.de 12件 
  "Engel's Coefficient" site:.de 3件

  日本ドメイン
  "Engel Coefficient" site:.jp 134件
  "Engel's Coefficient" site:.jp 10,400件


というわけでヒットするのは日本語・日本のサイトが大勢を占める。日本以外で、エンゲル係数国勢調査に使われているのは、サイトなどを見ていると中国や台湾が多い。占領時代のなごりかもしれない。中国語でエンゲル係数ってどんな風に書くのかな。英語でヒットする内容もざっとみたところ、日本・中国系の学者が書いた論文、統計などがとても多い。

偶発的な最初のきっかけで特殊な専門用語が偏在して残留しているということになる。なおかつそれが社会状況を測定する指標になっており、すくなからず社会に影響を与えているのだから、なんともおもしろい話である。

*1:正確には家計(消費支出総額)に占める食料費の割合

*2:高野岩三郎の兄は房太郎であり、働いて家計を支えるために十代で渡米、働きながら勉強した。後に房太郎は労働組合運動を日本に初めて紹介し、日本最初の労働組合である鉄工組合の結成に成功している。「天皇と東大」に引用された『高野岩三郎伝』には次のようにある。「高野岩三郎が兄の生涯とその事業によって如何に強く影響されたかは、想像するに難くはない。少年時代のことは省くとしても、在米の兄が日本の新聞に書きおくるアメリカの社会と労働にかんする記事は、一高生、東大生としての弟を熱心な読者として持ったことは確かである。兄の送ってよこす学資で東大を卒えたその翌年、この尊敬する兄は労働組合の創設という至難の事業を志して帰国した。兄は弟の世話役をしている社会政策学会に参加して講演すれば、弟は鉄工組合の発会式で兄と同じ演壇に立った。」