オミクス

クリスマスの前になると、やたらと夕飯に呼ばれるようになる。クリスマス・ディナーと称するのだが日本でいえば忘年会である。飯のあとには当然飲みで、ということは雑談する時間が普段よりも大幅に増える。
ゲノミクス、プロテオミクスは博物学である、という話を朝の3時ごろ私は家の居間で開陳していた。鳥の名前を覚えることよりも、鳥がどんな風に飛んでいるのかを仔細にしることがサイエンスである、といういつぞやここでも書いた憶えのある話に関連しているのだが、遺伝子に次から次へと名前をつけて、線で結んでいったらいつの日か”大いなる意志”が見え始めるってのは一種の信仰にすぎない、と私は説明する。いやそりゃそうだけど、でも、そんな博物学的な枚挙的知識も必要だ、という反論をポルトガル人がした。蓄積できる情報としてそれが必要だ、という意見である。そうだろうか。20世紀の初頭、ブラウン運動の論文を書いたアインシュタインに、森羅万象の鉱物生物の知識が必要だったとは考えられない。
ゲノミクスないしプロテオミクスはサイエンティフィックな興味に駆動されているわけではない、というのが私の見解である。なにが目的か、というと、実は上記のように”大いなる意志”の顕現を静かに待っている、という謙虚でロマンチックな世界ではなくより現実的な意味がある。その遺伝しないしタンパク質の発見者になる、あるいはそのモノに関連するネットワークを記述することで、いわば”唾をつける”のである。唾をつければ「俺のモノ」として一番乗りを名乗ることができる。いかにそのモノないしネットが生物学的プロセスに関わっているのか、という興味は脇において、いつの日かそれが金のなる木になりかわる日を想定して”唾をつける”。むろんほとんどのモノは大して重要ではないだろう。だから片っ端から精査して片っ端から唾をつけてゆくのである。数うちゃあたる、という実に乱暴な世界だ。これを称して”・・・オミクス”と名づける。どこの国もが国を挙げて支援しているのはこのなんとも下世話な”唾つけ”作業なのである。金鉱を求めてカルフォルニアに殺到した時代的状況ににていなくもない。