フェミニンなハンドル捌き

ドイツ、イタリア、スペイン、フランス、どこの国でも共通して女差別が公然と許されているのが車の運転についての話題である。車で高速を運転していて、妙な挙動をしている車がいると、運転している男が「あれ絶対女だ!ゼッタイ。ビール一本かけてもいいぜ」といった発言が当然のように出てくる。「今日へんなところでウィンカーだしている女がいた。まったく」などといった閑話もしばし耳にする。
では女は車の運転がヘタクソなのだろうか。私もしばしば経験することだが、理解しがたい低速でアウトバーンを走っていたり、度肝を抜くようなオフタイミングで車線変更をする車にヒヤヒヤさせたれて、「女か!?」と追い越しながら運転手をにらむと、いっこうに危機感のない様子の女性であることが多い。男の場合にはどこか暗黙の了解のようなルールがあって、こうくればああくる、という予想がスムーズに連携する。もちろん突拍子もない挙動をする男もいるが、経験に照らして明らかに女の運転のほうがこちらの思惑を外れた運転を披露することが多い。
あまりにそうした経験が多いので、車の運転をしながら考えるのだが、もはやこれは女の運転がヘタクソ、ということではないのではないか、という仮説を立て始める。社会にはルールがある。車の運転もしかりである。運転の際の明言化されたルールは交通法規であるが、そうした明言化されていないルールはいつのまにか決まっている。
例えば、である。追い越し車線を走っていて、右斜め前方の走行車線に二台の車が走っていたとする。前がトラックで後ろをが乗用車だとすれば、私はあの乗用車はおそらくトラックを追い越しにかかるだろう、とかなり手前の時点から推測し始め、その乗用車が追い越し車線にスムースに移行させるためには、(1)速度を上げて二台を抜き去り、後方で乗用車が車線変更できるように取り計らう。(2)速度を下げて半ば走行車線に移行する様子を披露し、乗用車がそのことをバックミラーで見て取り、追い越し車線に安全に移行できるように取り計らう。というオプションが存在する。特に(2)のケースの場合は車全体の動きを利用したコミュニケーションであるはずなのだが、乗用車の運転手が女性の場合はそれがコミュニケーションとして成り立たず、期待はずれにも私が待機しているのを尻目に追い越しウィンカーを出しながらトラックの後ろでウロウロしていたり、あるいは待機に待ちくたびれて私がでは、と改めて走行車線から追い越し車線に移行して二台を抜こうとし始めるや否や危険なことに同時に追い越し車線に移行しようとする、といったなんともわけのわからない結果になることがあったりする。頼まれたわけではないが暗黙の連携プレーを期待していた私は裏切られた思いで一杯になり、うおー、また女か、と思うことになる。
男女平等の社会とはいえ、車を運転している人間の比を思えば男のほうが圧倒的に多い。したがって、暗黙の了解ルールも男の論理と社会行動にしたがって決まっているように思う。だからほとんどの場合、ああきたらこうくる、という予測と行動が一致し、今のはすばらしい連携プレーであった、と溜飲を下げつつ運転することになるわけだが、女はこうした論理をどうも共有していない。したがって苛立つことになったり、にらみつけることになるわけだが、こうして考えると、実は女の運転が下手なのではなく、単に女が女である、という単純なことでしかない、ということに気がつく。逆の状況を考えてみればいい。女の運転手ばかりのアウトバーンで私が一人運転しているとする。私の思惑たる連携プレーは全て外されつづける。こうきたのに、ああこない、うおー。でもおそらく女の運転手達は、「なんであんなわけのわからない挙動をするのかしら」と思い、私の運転をヘタクソだと断定するのである。
なにやら、恋愛に似てはいないか。