日記における四捨五入

プロパガンダは引用のソースを特定しないので要注意、と私は習った。逆はどうなのかな。引用のソースを特定しない言明はプロパガンダ、だろうか。といういいわけはともかく、誰が言っていたのかまたまた忘れてしまったのだが、こんな台詞がどこかにあった。
「二つ日記を書いて見なさい。一つの日記は誰かに読まれることを思って書く。もう一つの日記は、絶対に誰にも見せないで、ありのままを書く。しばらくしたら、自分がどれだけウソをつくことができるのか、よくわかります。」
そうかもなあ、なんて思ったのだが、誰かに読まれると思って何かを書く、という点において手紙に勝るものはない。延々と特定の人間に向けて手紙を書いていたことがある。一日もかかさずに便箋三枚にぎっちり一年書いていたのだが(ご苦労なことである)、そのときに恐ろしいなあ、と思ったのは、手紙の中で表現される自分が現実の自分を襲ってくるような気がしはじめた時だった。注釈しておけば、手紙の中の自分と、本当の自分の間には大きな差はない。うそをかいているわけではない。毎日虚構を創作するほどには、普通の人間には体力も知力もないのである。でも言葉で自分を確定しているうちに、現実の自分との間になんらかの微妙な差異が生まれる。自分の中のほんの小さなことを四捨五入されることで生まれる差異。その差異がいつしかフィードバックされてくるのだ。
データの解析でも、一番下の桁数の四捨五入の仕方が結果の違いに大きく関わってくることがある。たたみこみ計算の過程などでで微妙な違いが大きく増幅されるためなのだが、毎日書く、ということはこれによく似たところがあるとおもう。