OECD学習到達度調査 「読書百遍意自ずから通ず」

以前私もちょっと触れたOECDの学習到達度調査(PISA)に関して、その後の続報があったのでご紹介。当事者であるOECDの担当課長が講演して、日本の成績に関する解釈を行ったそうである*1。話題になった”読解力の低下”に関してだが、次の部分。

日本で話題になっている「読解力」については、「全体として成績は平均的でだが、2000年調査と比べて大幅に下がった。成績上位層の成績が下がったのではなく、下位層の割合が増えたためだ」と指摘、「情報を取り出し、解釈し、洞察する力が低下している。他の国より『読み』を重視していないのかも知れない」と述べた。

すなわち、アホがますますアホになった、ということ。まあ、階層化を放置する(推進する?)政府なのだからあたりまえといえばあたりまえの結果か。愚策である*2。それにしても気になるのが次の部分だ。

数学に対する興味、関心や楽しみでは、「OECDの中で日本は最も低い。生徒の関心や楽しみが少なく、デンマークの半分以下だ。・・・(後略)

数学嫌いでは最先端をいっているわけだが、それでも

今回調査の中心分野「数学的リテラシー」では、「国全体としてトップグループに入っている。

ということは、すごーくイヤなのに無理やり勉強させられて苦渋に満ちた顔つきの小学生中学生が目にうかぶわけで、なんともご愁傷さまである。

とはいえ、どうも私はこれを単純に批判することができない。かつてジャポニカ学習帳の付録ページに記載されていたが、新井白石は子供の頃に夜も開けぬ早くから起きだして、真冬でも目を覚ますために冷水を浴び、漢文を書写して勉強したそうである。ご愁傷様、とこれまたいいたくなる。かくしてものわかりのいい大人が増加した昨今、この手の東アジア的なスパルタ教育方法はかくして子供を虐待している、といった感じで批判されがちなのだが、私はそれが極悪である、とも断言できない。意味もわからず無理やりなにかをやらなくてはいけない、ということであっても後で大いに人生を豊かにすることになるかもしれないからだ。例えば、トランペッターの日野皓正は子供の頃に新井白石よろしく朝早くにたたき起こされて楽器の練習をさせられて大いに不満だったというが、今だにそれに納得していないならば、彼が相変わらずトランペッターでいることもないだろう。
件の学力調査に関連してもうひとつ、情報の貯蓄と情報処理の違いについても書いた。「データベース型」なんてあほちゃうか、という内容だったのだが、これに関してもう少し付け加える。どんな運動にもいえることだが、空手を例に挙げれば、その型はカタログ的でしかない。データベースである。しかしカタログを繰り返すうちに自分の動きになる瞬間がある。あるいは瞬間ではないかもしれないが、そこには型から自動的な動きへの移行の過程がある*3。情報に対する態度も同様だろう。型としてしか存在しない無機的な情報の断片をそのままに収集するのではなく、情報の間に有機的な連結を生じさせて初めて動きが創発される。数学が大好きな子供が日本の二倍もいるデンマークではいかにして子供を動機付けしているのか私は知らないが、少なくとも上記の移行過程の存在とその意味がもっと喧伝されてもいいのではないか、と思う。すなわち、意味がよくわからないのにやったほうがいい、ということの意味について、である。

*1:理系白書ブログのコメント欄経由でみつけたのだが、コメント欄では「下がってない」という話になっている。

*2:愚策についてはこのあたりも読むといいかもしれない

*3:運動神経のいい人間、というのはこの移行の過程の到来が早い人間のことをさすのではないだろうか