"ヴェールをはいで現れるのは深奥ではない、そこもまた表層なのだ、性愛とは表層が出会う場なのだと。"

およよ。”オンライン日記”(武田徹さん)で、先日のデータベース/博物学に関係しそうな記述。

 確かにより望ましい知識とは、隠されている真理を暴いて自分だけが知ることだという「物語」がある。旅だってそう。誰も知らない秘境奥深くまで訪ねてゆく旅こそ優れた旅とみなす考え方は「女性を深く知る」という言い方と明らかに通じる。言わずもがなだけどジャーナリズムもそう。スクープは隠されていた事実を発掘する営みなのだから。
 要するに知ることの全てが「隠されているものを暴く」というイメージで理解されており、強固に隠されていればいるほど、あるいは暴いた数が多ければ多いほど、隠されたものを暴く作業が「よく知った」ことになる。こうした価値観がおそらくは根強い。それがスクープがもてはやされ、秘境探検者が尊敬され、更には「女を知った数だけ・・・・」の背景にある事情だ。
 で、ぼくは思ったのだがEDが深刻になるのも、こうした価値観があってのことではないか。いや、そりゃ社会的通念云々抜きで。個対個の関係でもそれが問題なのは当然。でもそれだけでなく、もはや自分は女性を深く知ることが出来なくなったという絶望感こそがEDの悩みを深刻化させている傾向もあるのではないかと思う。それは言ってしまえば、性的な文脈を越えて、知識構造の問題でもあるだ

2004年12月23日付
http://162.teacup.com/sinopy/bbs

EDの話と結びつくとはなあ。裏を返せば、グーグルマチョズム、だろうか。