無名性について

400人の若者がブロイラーのようにスシづめになって座っている予備校の教室。講義が粛粛と進められている。講義の間に質問をしていけない規則になっている。なぜならば、質問は講義を聴く他の学生を妨げるからだ。

この教室で一人の学生が突然てんかんをおこす。てんかんの学生は体をのけぞり、立ち上がった状態になる。机と椅子の間のスペースがあまりに狭いため、倒れることもできない。自分の机、その後ろの机と椅子にはさまれたまま、激しく痙攣を起こす。泳ぐように手を振り回すてんかん患者が教室の真ん中で体をがくがくと痙攣させ、奇妙な叫び声をあげる。399人の人間が注視するが、誰も動こうとしない。目の前のてんかん発症者をただ眺めてしまうのだ。質問を禁止され、自らの判断で自分を状況の中に自ら投入することから縁遠くなりすぎたのかもしれない。

これは現実にあった私の経験である。立ち上がっててんかん患者にボールペンを噛ませたのは遠くに座っていた私だった。講師はおろおろと事務を呼び出した。そして、ほかの398人の学生は、その過程さえ、じっと注視していた。まるで講義の続きを眺めるように。今ごろ彼らは日本の理系世界の若手として、エンジニア、医者、科学者になって活躍していることだろう。

ハイデッガーはこうした事態をすでに20世紀初頭に予見していたのではないか。19世紀以降の技術の発達、数量とマスプロダクションの支配が人間の無名性を生んだ(das Mann = Heidegger)。あなたがあなたである必要はない。無名性によって、存在の可能性の中心を見失う。繰り返される日常の中の瑣末に拘泥し、瑣末と戯れ称揚する頽廃を生む。無名性への安住、企投なき被投。無名性の出現による頽廃は技術の発達に伴う必然的結果である。大量生産、マスコミュニケーション、大量殺戮兵器(第一次世界大戦)の前に個別性は色を失った。世界が緊張した世界大戦。その緊張のあとで弛緩したように怠惰をむさぼり、日常に埋没した人々が生活するワイマール体制下でハイデッガーは考えた。いかにして個別性を奪回するか。個別性の必然性を理論的に確定しなくてはいけない。個にとって唯一の経験であり、個別にしか体験できない「死」を支点とし、将来に起きる死の瞬間から現時点を観望する。死に向かって企投すること。このことで、「死に先駆」し、実存的存在になるのである。こうした理論的観点から、突如、ハイデッガーは「共生起」へと飛躍する。民族の一人として個が覚醒し、共生起すること(「存在と時間」)。そうでなければ個別性を奪回できない。それがハイデッガーの結論だった。

こうした理論はナチスに哲学的なバックボーンを与えた。ハイデッガーは進んでナチスに加担した。ナチスが政権を取ると同時にフライブルグ大学の総長になった。ナチス突撃隊(SA)学生部を指導して、無名性の微温湯にまどろむ大学に対し「大学の内側からの改革」を目指した。ヨーロッパの危機にあって、その文化の源流ギリシャに回帰し、復興すること。しかし、ナチス左派であったレームの失脚とともに、権力獲得に満足したナチスヒットラーゲーリング、ヘス)の姿に失望したハイデッガーは、総長を辞任する。ハイデッガーは、ナチス過激派であったといってもよい。

しかし、ハイデッガーナチスに深く加担していたからといって、彼を単なる極悪人として断罪し、ハイデッガーが考えたことを丸ごと否定するのは間違っている。なぜならばハイデッガーがまず考えたことは、技術がさらに発達した現代にいたってさらに拡大・強化している無名性についてであるから(西谷修「不死のワンダーランド」)。ハイデッガーの思想は、マス・コミュニケーションの発達、生きる意味の喪失と日常の頽廃、劇場型の政治、相次ぐスキャンダル、大量虐殺をバックグラウンドにに登場した。無名性の浮上に対抗するために。それにしても、このハイデッガーの時代の状況、なにやら今の世界に似てやしないか?

そこで日本における無名性を考えてみたい。日本での無名性は匿名性でもある。そこでは19世紀末以降、20世紀を通じて世界的に展開した無名性の浸潤と、日本人が特別好きな匿名性が平行して起こっている。

無名性は個別性が消失している状態である。
一方、匿名性には自ら個別性を消失させる能動性を伴う。
そこにあるのは「世間」に対する不安(柄谷行人「倫理21」、円地文子「食卓のない家庭」)と、それに伴う「恥」の感覚である。世間の価値観は、恥の強度が基準だ。善悪でも美醜でもない。正しい、間違っている、という価値判断でもない。なるべく恥をかかないこと、それが世間的な価値である。

日本の都市に行けばどこにでもあるワンルームマンションを想像してみる。たとえば3階建で、それぞれの階には4つの部屋がある小さなワンルームマンション。すべての部屋の構成は同じである。8畳ほどの部屋があり、小さなバスタブとトイレを一体成型したユニットバスがある。小さなキッチンが、玄関から8畳の部屋に至る短く狭い廊下に沿って設置されている。蜂の巣のようなこのワンルームマンションの一室で、独身の若者が朝起きる。小さな冷蔵庫に入っている牛乳を飲む。あるいはオレンジジュースかもしれない。時間がなければ、何も食べない。あたふたと服を着て、部屋でていく。一日の仕事あるいは大学での課程をこなし、コンビニで買った弁当をぶら下げて、夜再び帰ってくる。あるいはちいさなキッチンでスパゲッティをゆでるのかもしれない。友達に電話する。あるいはテレビの番組を眺める。ニュースステーションを見て市民的な怒りを覚える。もしかしたら、心の中でまた大嘘をいいやがって、と毒づくかもしれない。あるいはネットにアクセスして、顔も知らぬ友人からのメールに返事を書く。借りてきたビデオの映画を眺める。ハリウッド映画の中で、ヒーローやヒロインが英雄的な人生を繰り広げる。まさに、ハイデッガーが賛美した実存的存在。死をもいとわぬ人生。しかしそれも2時間で終わる。あるいはいつ終わるのかもわからないプレステに興じる。一日のエネルギーを首尾よく使い果たし、若者は眠る。たぶん、その若者の隣の若者も似たような生活をしている。同じような部屋に同じようにテレビがあり、同じようにベッドがある。大量生産された商品だ。そんな無名性の中で若者の個別性を自足させるのは、もしかしたらテレビのメーカーの違いや、並んでいるCDのちょっとした違いかもしれない。聴く音楽のちょっとした違い、洋服のブランドのちょっとした違い、好きな作家のちょっとした違い、好きなファミレスの違いへのこだわりは、das Mann=無名であることに対する小さな抵抗を垣間見せる。

彼らは、無名でありたいと願っているわけではない。無名であることにイラついてさえいる。無名であることの理論的な根拠を誰も説明してくれない。一方でメディアに垂れ流されるのは無名ではない誰かだ。有名な人たち。芸能人、政治家、文化人。なぜ彼らは有名なのだろうか。取り立てて偉大であるとも思えない。無名の若者は思う。その若者を励ますように、有名人の恥部を晒し、スキャンダルを煽るメディア。やはり偉大ではなかったのだと喉を潤す若者。小学校で、中学校で、高校で無名の人として教育された彼らは、無名でなくなることに不安を覚える。大学の講義でも学生は手を挙げることができない。手を挙げることは、じっとする400人の学生のなかから一人で飛び出しててんかん患者を助けることのように勇気のいる行為なのだ。なぜ勇気がいるのだろうか。若者はそれを恥と解釈する。無名でなくなることは、世間に対する恥である。目立ちたいだけなのだろうと、世間に思われる。恥をかかないことが若者の個人的な倫理基準だ。若者はおぼろげにそう思っている。恥の強度スケールは変質している。居酒屋で裸踊りをすることは恥ではない。街で地べたに座り込むことも恥ではない。しかし教室で手を挙げることは恥だ。しかしそれだけではない。無名でしかあったことがないから、一人で飛び出すことが怖いのだ。なにが怖いのか?特別な人間、変人として知られてしまうことが怖いのだ。特別な人間は小学校でも中学校でも高校でもいたかもしれない。しかしかれらは特別さゆえに世間に引き摺り下ろされていた。スキャンダルになり、テレビカメラの前で謝罪する(誰に向かって?)テレビに出てくる有名人のように、たいした能力もないのに特別なことをするから、引き摺り下ろされる。特別な人間は特別な関心を持って世間に行動を監視される。中学の教師でさえ、制服のすそを長くしたり短くしただけで若者に目をつけたではないか。教室で机を斜めにしてみたら説教されたではないか。授業中に手を挙げて質問すれば、同じクラスの他の若者からその教師の仲間だと思われる。さげすまれる。やっぱり無名でよかった、と若者は思う。世間は怖い。無名であれば世間の関心を引くことはない。関心をもたれなければ、恥の強度も低く保てる。

しかしその若者は、自分が無名のdas Mannであるとは思いたくない。思えない。個別性への小さな欲求が若者のなかにあるのだ。だから若者はいらつく。自分の本棚に並べたCDのタイトルの特別さだけではその小さな欲求をみたせないかもしれない。なにしろ自分の部屋にだれかがやってくることなど、そうそうないのだ。そもそも来て欲しくない。恥をかくかもしれないから。若者がやっと作り出した小さな個別性はなかなか誰も認めてくれない。だから、ある若者は「ほんとうの自分」を探して旅にでるかもしれない。別の若者は、匿名の名を借りてインターネットの掲示板で勇壮に発言するかもしれない。若者は次のように思う。小学校や中学校、高校で特別なことをしなかった自分は、恥をしっていたから。自分に能力がなかったわけではない。匿名で発言するのは自分が恥を知る人間だから。そして、世間が怖いから。かくして若者は積極的に無名性を獲得しながら社会性欲求を満たし、ワンルームマンションの部屋で孤独に個別性をすこしだけ回復させる。

若者はテレビや雑誌で「科学技術立国」のスローガンを見る。さもなくば我々の国日本は滅びる、と某評論家が断言する。しかし、若者にとって無名性が自明ならば、<わたし>はがんばる必要がない。わたしではないだれかががんばるだろう。<わたし>は私以外の誰かと同様に無名なのである。交換可能だ。わざわざ微分積分を学ぶ必要はない。熱力学の教科書を開いて問題を解く必要もない。電話帳のような生物学の教科書を読み込む必要もない。ねじり鉢巻をして勉強することはないのだ。そんなことをしなくても、なるべく苦労少なく大学を卒業すればいい。給料は大して変わらない。いや、大学院に行ったら、生涯獲得賃金は、大学卒業して就職するよりも低くなるらしい。ましてや理系に行ったらさらに給料は少ないらしい。だったらなんで勉強しなければいけないのだろう?文字どおりの貧乏くじを引くのはいやだ。お金よりも大切なもの?自分を高めるため?

自分らしいCDのコレクションを棚にならべること。
難しい物理の理論を習得すること。
無名性の波間に浮かぶ若者にとってはいずれも同じことかもしれない。
<わたし>に小さな差異をつけて、ささやかな自分さがしをするために。

しかし、19世紀末以来人間を脅かしますます世界を浸潤しつつある無名性にどう対処したらいいのだろうか?ハイデッガーがいうように、無名性を「死への先駆」によって克服し、個別性の奪回を企図すればよいのだろうか?生きることの意味を失い、無名性の波間であえぐ若者たちに「民族の共生起」という救命ボートを投げ込んだハイデッガー。しかしこれも間違っていることは歴史が示している。

私が思うのは、ただ一点である。
「わたし」という一人の科学者が、なぜ、なにが、どのように面白いと思って研究しているのか。そのことが「わたし」自身をどのように変えて行ったか。何を得たのか。その事実を、匿名でないしかし無名かもしれない「わたし」が、目の前に立っているワンルームマンションからやってきた若者に根気よく説いてゆくことだけである。