場を作る

いくら世間のそして役人の無理解を研究者が嘆いたとて、それが良いものであり通したいと考えるならば、欠損を嘆くばかりではなく、自らが表現していかないと、コトは始まらないのである。それは、丁度、ゲノム解読がシーケンサー技術開発という道具を自らこしらえる必然と同じであって、発想/技術/場というこの三位一体を廻すプロデュース作業は、どんな仕事でも(それがたとえエコ運動というボランティアであろうとも)ついてまわる根本的ファクターでないのかな。
発想と技術と場

アメリカやヨーロッパの研究者がある特定の分野に、それっとばかりに群がるのは”場を作る”という効果を彼らがよくしっているからだ、と私は思う。科学研究の内容の絶対評価があったとして、同じ程度のクオリティをもつ研究が二つ、AとBがあったとする。クオリティは同じでも、Aに分野に100人の研究者がおり、Bの分野に5人しか研究者がいなかったとすると、論文のレベルは一緒でも、掲載されるジャーナル、研究費獲得の可能性は、関わっている人数に比例して高いレベルになる。すなわち、Aは圧倒的に有利になる。Aという研究テーマが本当に重要であると私に思えるのならばよいことなのだが、そうではないことも多い。むやみやたらと関わっている人間が多い、ということだけで圧倒的に有利になってしまうのだ。結局地道に宣伝活動を続けて願わくば場よ、現れん、といったことになるわけだが、これってとてもパフォーマティブな世界なんだよな。