情報からの逃避行動

つい半年前のことだが、イラクで日本人人質事件が起きたときに、自作自演説が流布され、特に掲示板やブログをはじめとするネットの世界では、あの誘拐は自作自演である、すなわち反イラク戦争の急先鋒である日本人たちが、地元のイラク人と共謀して誘拐を演出したのである、という説がやたらと幅をきかせ、なおかつかなりの人間が支持していた。それを受けたハードメディアまでもが自作自演に傾いた。あまつさえ、政治家までも。
その様子を眺めながら、私がどことなく感じていたのは、自作自演説を唱える人たちの姿がどこか精神的な逃避を起こした人間に似ているということだった。自作自演説を唱えていた人間は、当事者ではない。いわば野次馬である。野次馬が精神的な逃避を起こすほど、つらかろうはずがない。どこが似ているのだろう、とあれから後、考えているのだが、結局、現実の幅の広さ、ダイナミックレンジを受け止めるだけの想像力が欠如している、ということではないか、と思った。それは他の国に軍隊がいる、ということの重さを感じる想像力でもある。
とてもではないが正面きって向かい合うことができないほどのつらい状況に直面したときに、逃避は起こる。物理的に逃げるわけではなくても精神的に退行したり、妄想の世界に閉じこもろうとする。目の前にしている現実に精神的な余裕がなくなると生じる。外界をシャットダウンして自分を守ろうとする防衛機能である。自作自演論者にどこか共通したものを私が感じたのは、彼らがあたかも外界をシャットダウンしているかのように私には見えたからだ、と今では思う。イラク人が本当に誘拐したのではなく、日本人が筋書きを書いて演じているのである、この事件はイラクと日本の関係の中で起きた事件ではなく、あくまでも日本国内(的に)で起きた事件であるとどうしても思いたい、必死で自作自演論者達がそう願っているように私には見えたのだ。虐待を受けた幼児が、大人が悪いのではなく自分が悪いのであると思うことで、虐待という現実から逃避するのにもよく似てる。虐待される幼児がとてもつらいのは私にもよく分かる。でもなぜイラク日本人誘拐事件の野次馬である日本人は、なにがそんなにつらいのだろうか。
話はやたらと飛ぶが、リリカさんのウェブサイトが閉鎖したのちに、いろいろな人が書いているコメントを見ていると、「あんな高校生がいるはずがない。中身はもっと年上の人間である」という意見が多かった。その根拠は彼女が一年間書いていた内容が単に高校生にしてはとても信じられないぐらい高いレベルだったから、という果たしてこれが根拠といえるのかどうか実に不明確な一点にだけである。私はid:hotsumaさんのページにリンクされたさまざまな人のコメントを見ていくうちに、又再び逃避=外界をシャットダウンする人々を眺めているような気になったのだった。
外界をシャットダウンしてしまう大きな理由は、情報を受け取ったときに、その情報にリアリティを感じるだけの想像力と経験がないことではないか*1。ネットの圧倒的な情報の幅とその実在に、その情報を受け取る側の想像力や経験がついていけていない。だから自閉する。自閉して安心しようとする。
私は日本人が誘拐された、という報道を聞いたときに、さもありなん、と受け止めた。昨年から折に触れてなんども書いたことだが、小泉のブッシュ擦寄りによって、外国に暮らしている私の危険度は著しく上昇した。だから、起こるべくして起きたことだ、と私は思ったのである。ましてやイラクのご当地である。この経緯は当時いろいろ書いたから繰り返さない。いずれにしろ、その後頻発したさまざまな国の人間に対する誘拐事件を思い起こせば、今や「自作自演」は実に虚しく響く。
リリカさんに関しても同じことだ。すさまじい勢いで読書をし、なおかつその内容を極めて深く理解している高校生がいることのどこが不自然なのだろうか。あるいは、高校生の三島由紀夫でも想像してみればいい。例えば高校生の三島由紀夫が現存したとして、今ブログを始めたとする。いや、高校生の三島由紀夫には実はゴーストライターがいるのである、そんなに頭の切れる高校生が世の中にいるはずがない、とやはりネットは盛り上がるのだろうか。「中の人」がいるはずである、云々。
三島由紀夫と「中の人」の例えは少々誤解をうむかもしれない。「仮面の告白」もとい「高校生の三島」は却って大喜びするだろうから。

*1:昨日のコメント欄に即していえば、身体性を取り戻す、というのは想像力と経験を養うことだ、と私は解釈したい。経験によってさまざまなおいしいものを知り、その経験がどこかにおいしいものがあるかもしれない、という未知への想像力を生む。