コンビニ関連。

Ririkaさんのところ。

テレビと同様に、コンビニは平準化を強化して*1、結局人間は息苦しくなる、ということはあるかもしれない。息苦しくなるのは、人間はそれほど平準化することが難しいからだし、偏差がいろいろあるのが当然だからだ。テレビの場合は、みな同じ方向をむいている、ということになるけれど、コンビニの場合は繭に包まれる、という感じか。

欲望、文化産業、個人
ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)
訳・逸見龍生
ル・モンド・ディプロマティーク04年6月号
http://www.diplo.jp/articles04/0406-6.html

数十年来世界を支配している寓話がある。すくなからぬ政治思想や哲学が、その幻惑の虜となってきた。この寓話によると、1968年を経て、時代は「ゆとり社会」や「容認社会」「柔構造社会」など、いわゆる余暇社会、個人主義社会に変貌したという。脱産業社会論と呼ばれる、この寓話の理論から、「ポストモダン」哲学は大きな影響を受けた。それがこの哲学のアキレス腱となった。社民主義者も同じである。この寓話を信用し、大量生産・大量消費の産業社会から、中産階級社会へと時代は移行したと唱え、プロレタリア階級は消滅するだろうと予想した。

中略

あるモノの特異性を、私が欲望するのは、そのモノが、私という特異性を、鏡のように映しだすからだ。私自身のまだ知らない、私の特異性が何か、モノが明らかにしてくれるのである。資本が、私たちの行動をハイパー・マス化するのであるならば、欲望のハイパー・マス化にも、当然資本は狙いをつけるはずだろう。個人も、否応なく、群れとなって生きていかざるをえまい。そうした論理からすれば、例外者は、ひとえに打倒すべき敵となるだろう。この点は、産業民主主義のせいで、家畜社会が出現するだろうと喝破したニーチェが、とうに見越していたことだ。産業社会の政治構造が抱え込んだ真の難問だ。例外者への欲望を投影するスクリーンを、厳重な管理下に置いたとき、タナトスの論理(22)、すなわちエントロピーの影が、世界中を広く覆い始める。タナトスとは、秩序が、無秩序に従属することを意味する。タナトスは、涅槃の状態であり、あらゆるものが平準化に向かう。例外者が、「欲望の欲望する」対象でありつづけるかぎり、タナトスは、あらゆる例外者をことごとく否定するのと同義である。

*1:なんていうと、今はオンデマンドの時代だなんてコメントつきそうですけど、オン・デマンドは超平準化ではないか、と問うてみたい。狡猾になっただけのことだ。