暗い時代の人々(ハンナ・アーレント)

キタノさんのところ9日付は必読モノである。こうした国会での議論がいけしゃあしゃあとまかり通るのが、今の日本の雰囲気ならば、私は随分と浦島太郎なのだろう。以下は抜粋である。

○井上国務大臣 これはまさに助言でありまして、助言に強制力とか拘束力があるものではございません。

助言をいたしまして、それはいい助言だなということで、それを参考にして業務計画を実施される方もありましょうし、いやいや、そんなものは当然のこととしておれは考えているんだというような方もありましょうし、いやいや、おれはそんな助言に従わないよというような方もあろうと思います。それは全く指定公共機関が自主的に判断をされることでありまして、国として強制をするというようなことは毛頭考えておりません。

これは例の人質事件に関する話ではない。既視感を私は覚えたが、これはまた別件、報道機関に対する”アドバイス”なる業務指導に関する発言である。これに続く次の部分はさらにスゴイ。

ただ、指定公共機関で放送事業者を指定いたしますのは、これは政令で指定するのでありまして、その指定する範囲をどうしていくかというのはこれから検討するのでありますけれども、指定をするかしないかというその問題はあろうかと思うのでありますけれども、放送機関を統一して統制していくというような考えは全く持っておりません。

メディア関係者は心してこの言葉を聞くべきだ。事実上の脅しである。そしてこれら一連の討議で欠落しているのは、先月の「自己責任」論議に対する配慮だ。いや、配慮はしているのだろう。論者の頭の中はそれで一杯だ。しかしそれが、表の議論にならない。

3人の人質に冠する議論の経緯を思い起こせば、メディアが国益と連動すべき存在として議論された場合にいかなる結論がそこにはあるのか、いわずもがな、である。国益という最近流行の、あいまいにして未定義な概念が「迷惑」に直結した経緯がつい先月にあった。そしてこの迷惑直結型の論理は、上記の国会討議ではどうやら今後も期待されている。とても乱暴に、そしてあいまいに。議論には浮上していないが、既に前提とされているしかしながら不可視なロジックなのだ。

以下はキタノさんのコメントから抜粋。言葉は少々古めかしいと私は思ってしまうが(失礼)、およそすなわち、このようなことなのだ。万人よ、ケツをまくれ、とでもいいたくなる。

渡辺周議員は、「我が国には国益を損ねる報道機関は無い」と発言し、国益を損なう報道をする報道機関は報道機関ではないとの見解を示しました。
これは言い換えれば、国益を損なう国民は非国民であると言って人権を剥奪した大日本帝国の暗黒人権剥奪政策の理屈とおなじであり、政府の防衛政策にとって都合の悪い報道をする放送局は「非報道機関」であるから放送免許を剥奪してもかまわない、との見解を間接的に述べているに等しいと考えられます。

というか、日本のメディアは本当に死んでいるのか。あるいは死んだふり、だろうか。なんというか、これをして存亡の危機、という感受性はもはやないのか。