反占領闘争と拉致脅迫、誰の人質か?

冷戦直後に米国防省は、米国にとって来るべき脅威を大きく2点とした。一つは核兵器による脅威が依然として残る、ということだったが、もうひとつはテロリズムだった。国防省はこの脅威に新たに名前をつけた。”asymmetric warfare"である。日本語にすれば「非対称戦争」。この造語が、今のイラク情勢、強者による弱者の圧倒的な抑圧を説明する。

テロリズムは犯罪である。犯罪を取り締まるのは本来警察であり、裁くのは裁判所だ。しかしテロリズムへの対処が戦争に格上げされた途端に、テロリズムへの対抗手段は、法的な措置から西部劇になる。やつらを殺せ、だ。

圧倒的な暴力に対して、なりふりかまわず抵抗する人間に対して、我々は「邪悪」と指弾することが本当に正しいのだろうか。日本人人質事件で、日本ではすっかり背後になってしまった、いまなお継続しているファルージャの戦闘。

米軍のファルージャ包囲攻撃で、イラク人の死者はすでに450名にのぼっている。ファルージャ内にとどまっているアルジャジーラのクルーも、2度にわたって米軍による攻撃を受けている。町への食料・医療物資の供給は断たれている。バグダットから急行した重病人を搬送するための救急車もアクセスを許可されず。バクダット西部の住民がスンニ派とシーア派共同で大挙してファルージャに押し寄せ、発砲のみならず投石までして町をブロックしている米軍を圧倒し包囲網を強行突破、食料や衣料品の供給をしたそうだ。

ファルージャ内部の様子はアルジャジーラ以外、報道しえていない。住民の被害の様子をスライドにして公開しているので、リンクする。ページ右上の"Aljazeera exclusive in pictures:Falluja siege"をクリックすると、スライドを開くことができる。スプラッターな画像ばかりだが、4人の傭兵虐殺に対する米軍の応答がこれである。「歴史が裁く」とスウェイするまえに、それをみることができる私は、米軍の行いを悪逆非道と断言する。虐殺だ。それでもなお、日本政府は「虐殺は戦争ではありません」とコメントするだろうか。

なお、連続している駐イラク外国人の拉致はいまだに継続している。アメリカ人一名が人質に。職業は不明。バグダット西部で金曜日に行方不明になった民間人数名と、米軍兵士2名のいずれかである可能性。ドイツ人二名が行方不明。ドイツ大使館の警備員。「日本人、ブルガリア人、イスラエル人、米国人、スペイン人、韓国人」計30人を人質にし、米軍の撤退を要求しているグループもあるというが、人質の証拠は未確認。

一年前、バグダットは陥落し、イラク住民は米軍を歓迎した、とされている。そのときはそうだったのかもしれない。いや、少なくとも、米軍の先導で引き倒されたフセインの像の周りで手をたたいて喜んでいたイラク市民およそ百名はたしかに喜んでいたに違いない。しかし今はどうだろうか?本当にイラク市民は今でも米軍による一連の無差別爆撃と攻撃を歓迎しているのだろうか?私にはどう考えてもそうは見えない。

次の記事も参照にしてほしい。

ロバート・フィスク
この戦争のたた一つの真実 ーイラク人は我々がいやなのだ。

ナオミ・クライン
怒りが連帯を引き起こしている

いずれも英文だが後者の記事は特に読んでほしい。バクダットのサドルシティを歩いて巡った筆者が出会うのは、「銃弾にえぐられたコーラン」である。犯罪者捜索の名目でモスクに押し入った米兵の一団が、乱暴狼藉を働いた後にコーランを破り捨て、ご丁寧にコーランに発砲して穴まであけてモスクを去っていくのだ。モスレムにとってコーランがどれだけ聖なる存在であるか、おそらく米兵はよくわかっていないのだろう。この侮辱はモスレムが自分自身に対して与えられる辱めよりもはるかに大きな怒りを引き起こすのだ。あの対立していたシーア派スンニ派がいまや共闘して米軍に立ち向かっている、そのことがその怒りのなによりの証拠である。

最後に、日本人人質事件のこと。一言だけ書いておくと、国家の意志なるものがあるならば、その意志に平気で自分の意志までも沿わせることができる人間があまりに多いことに私は少々驚いた。自衛隊を撤退させない、というのは国家の意志である。国家の勘定で言えばそうなのかもしれない。しかしそれにたいして、個人である国民はその個人の感情を沿わせる必要も必然性もまったくないのだ。

そしてもうひとつ際立っていたのは、国を批判する人間は国に守ってもらう権利はない、とする意見だ。だったら日本国民は、日本国の人質なのだろうか?