Lost in Translation 再考

以下の引用は日系アメリカ人による批判。背が低い、わけがわからない、西洋の猿真似、といったステロタイプを一般化している、昔の日本を敬いながら、現在の日本を馬鹿にする、というコッポラの日本に対する視線は差別的である、としている。

[quote]

While shoe-horning every possible caricature of modern Japan into her movie, Coppola is respectful of ancient Japan. It is depicted approvingly, though ancient traditions have very little to do with the contemporary Japanese. The good Japan, according to this director, is Buddhist monks chanting, ancient temples, flower arrangement; meanwhile she portrays the contemporary Japanese as ridiculous people who have lost contact with their own culture.
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Some have hailed the film's subtlety, but to me it is reminiscent of the racist jokes about Asians and black people that comedians told in British clubs in the 1970s.

Totally lost in translation

Kiku Day

二つの日本、という印象は、何人ものドイツ人から私は聞いている。仏像、神社、華道、茶道、枯山水といったイメージと、アニメ、ソニー、ホンダ、ニンテンドーといったハイテク文化大国のイメージがどうしても一致しない、というのが、「二つの日本」だ。コッポラの場合は前者を賞揚しつつ、それを失ってエセ西洋化した日本人をバカにしている、というのが、上記の尺八奏者だという書き手の意見である。

上の意見に対するものではないが、一般的に広がっているこうした差別批判に対してSofia Coppola はディフェンド。

「この映画は日本人に攻撃的だと思う?」とたくさんの人が聞く。でも、日本人は、アメリカ人を笑いものにしている。アメリカ人が日本人を笑いものにしているよりももっとね。彼らは東京にいるガイジンのバカさを眺めるのがすきなの。彼らは侮辱されたとは思わない。彼らは、他の世界にとって”お辞儀”が笑えるもので、日本語がわけのわからないものだってことを知ってる。

[quote]

"Many people say, 'Do you think this is offensive to the Japanese?' Well, I know the Japanese are laughing more at the Americanisms than we are laughing at the Japanese-isms... they love watching the stupidity of the foreigner in Tokyo. They're not offended at all. They know that the bowing is funny and that their language is impenetrable to the rest of the world."

'I know how to be sour'

コッポラは差別を否定しているわけではなく、互いに笑いものにしあっているんだから、いいじゃない、という論である。

こうした「差別が否か」という議論に私はどうも入っていけない(この映画に関して差別度評価の議論が目下けっこう盛んである)。私には「ロスト・イン・トランスレーション」におけるさまざまなエピソードの一つ一つが、日本人に対する差別表現である、とはあまり思えない。登場する東京の日本人はそのままの日本人だと思うし、あるいは日本のテレビでみかけるコメディアンそのものだからだ。後者にかんしていえば、そのバカさ加減はおそらくヨーロッパで一番アホ番組が多いと思われるイタリアのバラエティ番組をはるかにしのぐバカさ加減である。日本を高邁な文化として認めてもらおうとするならばそれは恥部だ。しかし売りでもある。これだけバカになれるのは才能だ。もしかしたら、日本をあまり知らない外国の人間が、「これは日本を笑いものにするための過剰表現ではないか」と心配してくれているが、このバカバカしさが、まさに今の日本の東京。事実なのである。私はこの古い日本ではなく、みもふたもない現代ニッポンが世界に広まるのはとてもおもしろいし、よいことだ、と思う。盲目的に対米追従しながら武士道と口走ってみるより、よっぽど恥ずかしくない。

なおかつ、この映画で紹介されるバカニッポンはかなり初歩的なバカさなので、今後の掘り下げをさらに期待したりしさえする。日本のバカはもっと深く、職人的でさえある(ヨシモトを見よ)。それだけではない。以前にもいったように、そもそもこの映画はどちらかといえば、東京・日本の映画ではなく、パーク・ハイアットの映画なのだ。日本人は単に物語から排除され、ただの背景である。背景に差別も糸瓜もない。舞台がシンガポールラッフルズホテルでも物語は同様に進行しただろう。でも、日本でこの映画を見る日本人は、どんな視線でこの映画を見るのだろうか。私はそのことに興味がある。主人公の二人に感情移入して、他者として日本社会を眺めるだろうか?すなわち、わけのわからない、西洋モドキの変異体社会として今現在の日本の社会を眺め、その滑稽さを笑うだろうか?

私は笑った。日本のバラエティ番組に典型的なボケやジェスチャー。笑ったとはいえ、ギャグのレベルとしてそれは誉めるような技術ではない。普通に笑える日本的ギャグだ。日本的バカさに免疫のない非日本人観衆にはこのぐらいのビギナーコースかもなあ、と思いながら私は笑う。でもその笑った瞬間、心の中のひっかかりを感じずにいられない。たぶんその瞬間、笑っている私は名誉白人になってしまっているからだ。以前リリカさんが指摘した、「あそこの地区は黒人が多い学区なのよね」としたり顔でいつのまにか名誉白人になっているボストンの日本人と同じように。「この日本人、奇妙だね、アハハ」。この映画の中では、ギャグやバカげた行為を日本人が行い、それを主人公である二人のアメリカ人が苦笑した戸惑ったりして解釈する、その二人のアメリカ人の様子を通して観客である我々が笑う、という構図なのだ。この構図を通して、ギャグそのものを直接笑う、というダイレクトな視線が、日本人の滑稽さを嘲笑する、というインダイレクトな文化的視線にシフトする。笑っている私は、少しだけ「日本の他者」のフリをしているのである。結局私はこの映画がキライになる。これを文化の相対化、とは私はいいたくない。日本人に名誉白人化を促す、この映画をいかに批判すべきか、とマジメに考え出す。

日本に遅れること10年以上、ドイツのテレビ番組で、「風雲たけし城」が放映されている。ドイツ人が笑って、私も笑う。画面の中では日本人が転んだり、水に落ちたり、泥まみれになっている。でも、その番組にはアメリカ人ないしは、ドイツ人は登場しない。他者としての観察者が登場して、なにこれ、わけわからない、異様だわ、理解できない、という感想を我々に見せることはない。文化的他者を舞台に登場させることで日本人という文化コードを弄んでいるのではなく、白い粉だらけになる、ぬれねずみになる、などなど、まさに馬鹿げたことをしている人間そのものを笑っている。だから私は、ドイツ語に翻訳された「風雲たけし城」に笑っても、心にひっかかりを感じない。ばかじゃねぇ、お、よくやった、と、ドイツ人と一緒になって笑うだけだ。

他者として東京を訪れ、馬鹿げた日本人の姿(それはそれでいい)に苦笑するアメリカ人に感情移入しなければいけない(ここなのだ)、という「ロスト・イン・トランスレーション」だから、私は笑いながら心の中にひっかかりを感じて、やがて不快になってしまうのだ。それは差別された、という怒りではなく、笑うことで名誉白人になって母国を嘲笑する居心地の悪さ、なのだと思う。この名誉白人シフトの過程を、さらに排除の構造が強化する。それがパークハイアットの内と外だ。この内外の境界線を笑いながら映画の観客はまたぐ。たぶん、上記ボストンの日本人には名誉白人シフト、及び排除の境界線をまたぐという行為に、心の引っ掛かりがないのだろう。素直に名誉白人として通過できるのだ。

いや、ほんとうになにごともなく通過できるのだろうか。蛇足になるが、「ロスト・イン・トランスレーション」を見て笑い、でも少しでも心に引っ掛かりを感じた日本人は、小島信夫の「抱擁家族」を読んだらいいかもしれない。