昨日のコメント。

それと、件のインディペンデントの記事、微妙に情報操作してあるのが気持ち悪いところ。例えば「2003年度のブッシュ減税の効果として、2006年度の税免除額が100ドル以下と推定できるアメリカ国民の比率」と「2003年度のブッシュ減税の効果として、2004年度に推定されるブッシュ政権閣僚の1 人当たりの平均税免除額」。比べている数字が2006年度と2004年度になっている点に注意。減税額は年を追う毎に少なくなっていくので、この比較は意味が無いどころか、操作的でしょ。

「微妙に情報操作してあって気持ちが悪い」というのは推し量るに、データが並べられているだけ、という冷たさを装いつつも、並べかたに恣意性が感じられる、というところだと思う。読者に対して無言で比較を強いる、という見方もできる。こうした手段に、記述の責任を言葉を弄さずに回避しようとするズルさがある、ということもできる。私は気持ち悪い、とまで思わないが、この点には賛成だ。

でも、なのだが、引き続き最後まで読んで欲しい。

件のインディペンデントの記事「George W Bush and the real state of the Union」の部分。まずふたつのデータを並べること自体に、その記事を書く人間のメーセージがこめられることは不可避だ。まぬがれ得ない。

次に並べられたデータが2004年の結果と2006年の結果であり、操作的である、という点なのだが、果たしてこれは操作なのだろうか。指摘の部分のソースを更にチェックしてみた。すぐにわかったのは、このリストは様々なソースからの寄せ集め、ということだ。

88%: 2003年度のブッシュ減税の効果として、2006年度の税免除額が100ドル以下と推定できるアメリカ国民の比率

に関してはハーパーズ・インデックス(2003年10月)から。

4万2,000ドル: 2003年度のブッシュ減税の効果として、2004年度に推定されるブッシュ政権閣僚の1人当たりの平均税免除額

に関しては、ヴァニティ・アフェアの編集長Graydon Carter の記事から(Vanity Affair2003年10月号)。

ちなみに、カーター氏のリスト「The President? Go Figure」では、数字が間違っているところがあって、米国債務総額は$6,840,000,000,000,000(quadrillion)ではなく、$6,840,000,000,000(trillion)。千桁間違えるのはどうか、と私は思った。米国の債務状況をリアルタイムで見るには米国財務省の公式ページ。2004年1月23日でちょうど$7trillion(7兆ドル)。

余談だが、このカーターの記事には女優のバーバラ・ストライザンドが日記で引用しているので、覗いてちょっとびっくりした。すごい政治的。「戦時下経済だ」などなど。また、Graydon Carter に関しては、ガーディアンの記事が詳しい。

以上のことをざらっと見ていてわかるのは、インディペンデントの記者は、あっちこっちからメディアにころがっている数字を集めて、切り貼りした、ということ。だから、恣意的に2004年と2006年とのデータを選んで、読者を騙そうとして記述したわけではないだろう。もうすこし記者よりの見方で想像すれば、リストを締め切り前までに作ろうと思って、必死になって探したんだけど、どうしても同じ2004年の「100ドル以下しか得しないの国民の割合」がみつからない。で、まあいいか、えいや、と2006年の数字で、記事にした。操作、といえなくもないが、騙そうとしたとも思えない。

さらに私は2006年と2004年という年度の違いを、この内容に関して糾弾する意味があるのかどうか、と思う。そそもそも、得する金額がこれだけちがうのである。なにしろ、100ドルしか得しない貧乏人と、4万ドルも得する金持ちがいる。そんな政策なのであるということ、しかもその政策を立案した人間自身が得をするのであるということ、これははっきりした。あるいは2004年に米国国民は、実はもっと得をして、一人あたり4万ドルに迫るほどなのだろうか。想像しがたいが、詳細を議論するならばこの点をつめるべきであり、違いをはっきりさせることである。これを厳密に比較してみよう、というのはとても大事だ。でも、この搾取を理解するのに必要なのは統計学や経済学の厳密さではない。常識で十分な差があるのである*1*2マルセル・デュシャンの「泉」に対して、「そりゃただの便器でしょ」、というだろうか。そのように言うのが、確かに厳密には正しい。でも間違っている*3

統計的な意味を批判するのであれば際限がない。例えば、

4万2,228ドル: 2001年度におけるアメリカの1世帯あたりの平均年収金額

という翻訳は、もとのインディペンデントの記事を参照すると

$42,228: Median household income in the US in 2001

なので、翻訳が間違っている。平均値ではなく中央値。年収額のヒストグラムの形がものすごく歪んでいる(skewnessという)場合には、この翻訳違いは困った事態になる。さらに言えば、そもそも原文の統計値のリストにおいて、平均値と中央値が混在しているのは、データの表現の仕方として決定的なミスなのである。たぶんこのような厳密な意味でのミスは、ほじくればいくらでもこのリストから引き出すことはできるだろう。

「操作的ではないか」という議論は果てがなく、結論は「沈黙以外にありえない」ということになる。なぜならば、というわけで、もうすこし説明する。例えば人の論文をピアレビューするときに、ウソくさい論文だったら私は統計的な議論を持ち出す。いやなヤツの態度をとる。統計的なことでゴネはじめたら、まあ、だいたい議論は果てがない。「誤差がないですけどいいんでしょうか」。で、だいたいこれであっているかな、という適当なところで手を打つ。更にいえば、リストを作る、という行為自体に客観性はあるのだろうか?すなわち、記者がこれらの項目を選択した、ということに客観性はあるのだろうか?サンプリング自体から恣意性を排除することはできるのか?私はこうした基本的な客観性までも問い、批判することも出来る。しかしそこまで私はしない。なぜならば、記述という行為自体が恣意的であることをまぬがれぬ手前、こうした議論は「沈黙せよ」にしか結着しないであろうから。

「客観的な報道」というありえない立場をうたって及び腰になり、それこそ意味のない言葉の羅列に終始する某国の大新聞よりも、よっぽどはっきりとしたメッセージがここにはある。というわけで、私は数字をかき集めたインディペンデントの努力に敬意を表したいのだ。

*1:過去の文章を再掲する。「なぜこんなことをずらずらと思い出したように書いているかというと、昨日id:femmeletsさん経由で、「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」を読んだからだ。西部さんの立場はQというシステムをいかに洗練させ、効率よくし、広めるかという立場にほかならない。そのためにはボランティアでは保障できない定常性を導入するために専従者の雇用が必要だと考える。これはたぶんそうなのだろう。いってみれば、Qは銀行であり、銀行の業務を素人が副業で行う労務負荷は過大であることは想像に難くない。しかも日本の銀行だ。ガムをかみながら接客業務することは決して許されない。しかし柄谷さんは批判する。理念を犠牲にしてまでシステムの運行を安定にする必要があるのだろうか、それではそもそもの生産協同組合、という理念にもとるのである、専従者の導入は理念の放棄にほかならない、不安定なシステムならばそれでいいではないか、そのためには正確さ・精密さ・効率は低下するかもしれない。それでもいい、と吼えつづける。」

*2:「私にはあまりにもこの「論争」は明解だった。上で私が使った言葉にすれば、システムフェチの問題に他ならない。Qという愛すべきシステム。実はシステムフェチの問題は丸山真男が 60年近くも前に「日本の思想」で「タコツボ」と批判し、何度も繰り返されたことである。学生運動の時期にも、運動論としてさんざん議論されたはずだ。同じことが繰り返されているにもかかわらず、互いの人格攻撃にまで堕している論争に私はかなり失望した。生物学を専攻しているからかもしれないが、私はシステムにおけるコンポーネントは入れ替わるもの、不安定なものだと思っている。大まかにあっていればそれでいいのだ。」

*3:柄谷行人トランスクリティーク