「一九六八年革命小史」
重力02の「レフト・アローン」をめぐる巻頭討議と、絓秀実の「一九六八年革命小史」を読んだ。絓秀実、というと、私が最初にこの人の名前を知ったのは、かなり昔で別冊宝島の反動保守や現代思想に関するムックだったと思う。「68年革命小史」はウォーラーステインが提起した、1968年を境に世界は決定的に変わった、という点を日本における学生運動、その周辺の文化芸術とともに説明した短い文章。「革命的な、あまりに革命的な」([ISBN: 4878935545])のダイジェスト版、ということで、この間日本で買えばよかったなあ、と思った。というのも、日本の学生運動史の詳述に資料的な価値があるぞ、と思っただけではなくて、そのダイジェスト版でアングラ演劇の展開と三島由紀夫の関係に関してかなり詳しく書いてあって、ナルホドー、そんな話だったのか、と、なかなかおもしろかったのである。
あと、学生のアパシーは68年革命とその後に露呈した教官と学生の間の社会的な断絶が原因である、と主張している。この点については自分でもう少し考えたいなあ、と思った。すくなくともどんな形で大学の教官を不安定な状態にすべきなのか。実際なりつつあるけれど、現状では極めて官僚主導なので、競争主義導入と財政的な動機でしかなく技術的な話である。目的をより明確化して不安定さを形成すべきだ(=確信的フマジメ)。同時に、不安定さの引き換えに、社会的にそれを救うなにかも必要であり、昨年末にいろいろ書いていた「コミュニティ」も関係してくるだろう。教官という立場だけではなく、いまや単純労働予備軍に堕した大学生にも本来必要であろう「コミュニティ」なのである。
[引用]
事実,今日においても,われわれは何らかの意味で「主体」としてしか存在しえない。たとえば,弁護士になろう,学者になろう,エンジニアになろうと思えば,その場合,大学教育を受けないでなることは不可能に近い。六八年革命以降も大学はいまだ「のりこえ不可能」であり,解体されつつも,いまだに構築されているといってよい。その意味において,大学は,グローバル資本主義の時代のイデオロギー装置へと変貌することになるのです。 そのことを,別の角度からもう少し詳しく見てみれば,国家のイデオロギー装置としての大学は,今や,リースマンがいうところのスチューデント・コンシューマリズム,つまり「学生消費者主義」によって維持されている,ということです。
私なりにいいかえると、大学という選択しかないから、教官や学生の不安定さが生きないのである。
とはいっても、スガ本にこだわらなくとも、重力02自体が68年革命特集、ということで、多角的に1968年から今を眺める、という情報を提供してくれているようだ。なかなかの迫力の大部の雑誌なので、まだたくさん読むところがある。かなり楽しみ。