タバコ仲間のドイツ人が、休暇明け休暇明け、とぶつぶついっているので、なにしてきたんだ、と聞いたら、「家にいた」という。10日間、電話線を切り、ケータイを切り、食料を買い込んで外部とのコミュニケーションを一切断って家に閉じこもっていたのだそうだ。たまにそんなことするわけ?と聞いたら、一年に2回やらんとおかしくなる、という。

先日、フランスのテレビ番組が日本の引きこもりを特集していて(フランス語では「イッキコモリィ」と発音していた)、いまや引きこもりも世界制覇か、と思いながらも、出不精なだけなんじゃないの、というような感想も避けられなかった。出不精、という人間は昔はそうした人間として認められていたのであり、いつしか出不精が認められない窮屈な社会になってしまったので、出不精な人間が過激化してしまったのではないか、なんて思った。上記のタバコ仲間は明らかに出不精なのであり、時々極端に出不精さを発揮しないと精神のバランスがとれない、ということなのだ。たぶん彼が日本に住んでいたら、遅かれ早かれ「引きこもり」になるのだろう。

出不精であることができない、という社会を作ってしまった点に不幸があるのだ。これはたぶん、阿部和重の「シンセミア」で描かれた、一億総ピーピング・トムと化したニッポン、ということと、とても関係しているのである。id:tokyocat=Junkyさんが、「シンセミア」の評を書いている。