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土屋貴志氏「規範的判断における情報」

倫理学を専攻しているという人間には一人だけあったことがある。まだ学生の時だったが、肉体系のバイトで一緒になった。東大、というので専攻は、となにげなく聞いたら「倫理学だ」というので、全く倫理的ではないバカなことを次々としでかしては反省を繰り返す私はその言葉面に妙に感銘をうけ、この男はさぞかし倫理的なのであろう、と勝手な思いを持った。いうまでもなくこの素朴な期待は次々に裏切られる。結局私には倫理学というのはいったいなんなんだ、という思いだけが残り、私がそんなことを思っているとはしらない彼はいつまでたっても倫理学の片鱗を見せようとはしなかった。土屋氏が上の発表で述べているのはこの私が感じたような「倫理学の裏切り」をいかにして説明しようか、ということに他ならない。倫理学倫理学として完結した体系であればよく、一方で実践的な部分はそれとは別に後から理屈をつければよい、という意見である。一方でこれにたいして、それじゃあメタ倫理学すなわち論理学ではないか、無意味である、と鋭い批判を加える土屋俊氏は、理念的な結論と実践は常にずれるものであり、しかしながらこの不可避のずれに対して常に理念的なサイドから実践に近づこうとおそらくは無駄に終わるかもしれない永遠のアプローチに賭けるのが倫理学という行為である、という姿勢を見せる。私にはどう考えても後者の方が潔い、と思う。でなければ最初から倫理学などやらなければいいのだ。