バリ

シンガポールからしばしの休暇でバリに行った。いろいろ楽しい旅行だったが、印象に残った一人の男について書く。

旅行先で観光ツアーに行くというのはいままでしたことがなかった。観光地にそもそも興味がない。飲んだり食ったりするほうが重要なのである。とはいえ一歳半の子供がいるので、飲んで回るわけにもいかない。車を運転してもらって観光地を回るんだったらラクだしできそうだな、と思ってはじめてツアーを頼んでみた。泊まっていたホテルのシャトルを運行している気のいいお兄ちゃんがしきりに売り込むので、ツアーをお願いすると決めたら即決だった。値段を聞いたら逆にいくらだったらいいか、というので、ガイドブックを見てそれよりも低めの値段をいったら、そのままだった。

当日ガイドとしてホテルにやってきたのはシャトルのお兄ちゃんではなく、日本のチンピラのようなサングラスをかけた若い男だった。中肉中背、浅黒い肌に刈り込んだ髪。運転してもらうみちすがら、彼の子供の話などからはじまり随分といろいろ彼の身上をしるところとなった。話すうちに最初は大いに緊張した様子だった彼もうちとけ、ツアーのガイドをするのは初めてであること、父親が最近死んだので葬式を出すためにホテルの料理人をやめたこと。葬式がなにしろ盛大なので、仕事どころではないそうである。それでお金がないので、臨時で村の知り合いのつてで、ガイドのバイトだ、という。家族の葬式のために仕事を辞めるなんて、近年日本でもドイツでもないよな、と思う。そもそも観光地などにあまり興味のない私は、彼の個人的な話のほうがおもしろかった。我々のホテルがあり、彼も住んでいるジュンジュンガン村は一週間に一回、観光客向けにケチャのショーがある。ちょうどツアーの前日の夜いったケチャのショーに、彼も猿の一匹として出演していたそうである。出演者100人の若い男、ジュンジュンガン村の人口が2000人ほどなので、村の若い男総動員に近いのだろう。チケットは500円ほどで、観客は20人ぐらいだったが、収入は村の予算になるのかもしれない。

お寺などを廻る間、彼は必ず子供を抱っこしてくれた。バリではレストランにいくと、ウェイターないしウェイトレスがずっと子供の相手をしてくれる。仕事そっちのけ、ともいえるが、子連れの家族が来た場合に子供の相手をするのがサービスである、とどうも考えられているようなので、仕事の一部でもあるのだろう。その間にゆっくりと私なぞは飯を食うことができる。大変にありがたい。臨時ガイドの彼がずっと抱っこをしてくれたのも同じ理屈だろう。子供が一人なんだけど女の子だ、男の子が欲しくてたまらない、バリにおいていかないか、とかいいながら、無珍先生もすっかりご満悦だった。

ガイドとしての知識は彼にないようだったが、普通のバリ人としての宗教観などを知ることができたのがおもしろかった。お寺にいくとやたらと塔がたっており、その宗教的な意味などはガイドブックを見ると詳しく書いてある。しかし、ガイドの彼に、あれなんだ、と聞くと、中に精霊が入っている、で終わり。私にしても神社に日本人ではない人間を連れて行って、お社の中になにが入っている、と聞かれたら、神様、とでもいうしかないよな、と思ったりする。

すっかりリラックスした彼が緊張した表情を見せたのは晩飯の前だった。晩飯を食う場所はすでに決まっている、とかで案内されたレストランは海に向かう断崖絶壁の上にある風光明媚なレストランだった。これを頼まねばならない、とウェイターに差し出されたメニューはバリでの物価からいってとてつもない価格のコースである。二人分頼んだら、それだけでそもそもツアーの費用の4倍近い値段になってしまう。ちらっとガイドのほうをみるととてもすまなそうな顔をして黙っている。ひとりだったら席を蹴るが、彼のこともあるし、と思ってそのままなにもいわずに頼んだ。おそらく、あのジュンジュンガン村のお兄ちゃんがこのレストランとタイアップして、ぼったくりを企図ずみなのだろう。夕食には彼も招待した。イセエビだのイカだの炭火焼がでてきたが、たししたことのない味だった(魚介類に目のない無珍先生は貪り食っていたが)。そんなわけでツアーは幕を閉じ、長い道のりをホテルまでふたたびおしゃべりをしながら帰り、途中ではCDショップにも寄ってもらってバリガムランのCDを選んでもらった。彼のケータイの着信がすばらしいバリガムランだったので、これは信頼できる、と思ったのである。帰ってから聴いたら、見事に当たりだった。

ホテルの玄関前で、ツアーの料金を支払った。お金を渡しながら、ヒトコトだけ、とレストランのことをいった。君も料理人だったらあのレストランのあのたいしたことのない料理の値段がぼったくりだというのはわかるよね。私は少なくともそう思う。彼はとても困ったように、なんどもうなずきながら、本当にそう思う、あの値段はとりすぎだ、といった。でも私は君の顔を立てるために、帰るっていわなかった。このことは知ってほしいし、これからはあのようなことをしないで欲しい、といった。彼は深くうなずいた。しばらくお互い黙ったあと、でも一日どうもありがとう、これは君のためではなくお父さんにお供えを、といってチップを渡した。やっとにこっと彼は笑い、ありがとう、そうする、と答えた。

棚田の横にたったホテルの夜は、実に静かでかつ騒々しかった。騒々しいのは虫の音。用水路のせせらぎ。電気を消すと本当に真っ暗。私は珍しくはっきりとした夢を見た。ひさしぶりに見た夢には死んだ彼女が出てきた。普通に二人で生活していた。夢の中で、彼女が死にそうになって大変だったことが夢のように思える、と私は思っていた。いざ起きてもしばらくその感覚がぬぐえなくて、彼女はどこにいったんだろう、とぼけっと思っていたほどだった。バリは不思議な場所である。