ムカシのネット

90年代半ばのネットってまだまだ好事家の対象であって、存在自体が無国籍的、なおかつアナーキーだった。その流れの中でたとえばDer Angriffとか宮崎学といった存在がでてきたわけで、詳しい説明を省くが*1語りのスタイルの属性としてはオウム的、サブカルそのものだった。オウムのサリン事件が起きた後であっても、その範疇にどうしても属していたのである。00年代も最後になる今、様相はたしかに異なっている。ネットは体制、政治そのものになったのだ。アナーキーでなにもなかった状態からは思えばずいぶん遠くにきたものだ、と思ったりする。以下、id:horai551さんの発言から。

日本語のネット空間はながらく、極めて狭い前提(私の言い方で言えば「<サブカル保守>一尊」)を共有した人たちだけによるいわば「閉ざされた言説空間」のような状態にあり、松永さんはその閉ざされた空間の枠内の左派として右派から叩かれてきた。いちおう枠外にいる人もいましたが、その人たちも「閉ざされた言説空間」の存在を意識してはいなかった。

Apemanさんやmujinさんあるいは金光翔さんは、その閉ざされっぷりに気付いてそれに対する批判意識を持っている点で従来の左派とは異なる。その批判意識の結実として「<自称中立>批判」・「<佐藤優現象>批判」があります。
http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090420/p1#c1240245688

… とまあ、そんなわけで再び『リアルのゆくえ』をめぐって時々考えたりしている。Apemanさんのところでのmatsunagaさんとの短い応酬もたしかにその範疇にある。

*1:たとえば軍オタの系列で週刊オブイェクトがこうした路線を受け継いでいる。マスメディア批判、シンジツ暴露志向。悪いことではないが、ネットにこそ玉石混交の中にシンジツがある、という通奏低音がそこにはあるし(そして以前はもっとあったと思う)、”ソース”をキーワードとする情報のトラッキング、追求もこのあたりに淵源している。こうした活動、追求の過程が偏ってしまう結果としての歴史修正主義的な情報のコレクション、とかもまたこうした傾向の副産物だろう。