葬式について
一人の人間が死んだことを確認するためには儀式的な社会行為が必要であると知ったのはたぶんとても若い山仲間の友人が死んだときである。雪崩の中で窒息死した後輩の葬式。それまでは、葬式、あー、キッチュ、だった。確かに。くだらねえ、葬式。おれはあいつのために川にに飛び込む、葬式なんてしゃらくせえ。葬式がキッチュ、というのは実にあたりまえ、というか理の当然である。でもやらなきゃいけない。それが私が後輩の死から学んだことだった。Condolence。何度もいわれた。彼女のことを知らない人にも。でもそれでいいんだと思う。それは社会的合意なのである。一人の人間が死ぬ、というのは個人が死ぬのではなく社会のなかに穴がぽこっと開くことである。死はその当事者には確認できない。したがって死はどうしても社会的にならざるを得ない。
極端なことをいえば葬式によって擬似的に我々はその人を社会的に殺すのである。そのために葬式がある。悼む、というのはその社会的に殺す場面に立会い、個として個の社会的殺人者になることを共有することだと思う。ではその社会のありかたがあまりに多様である場合にはどうするのか。たとえば私と彼女の友人たち。仏教、無宗教、キリスト教、イスラム教。そこに共役可能な社会はあるのか。葬式の形式はあるのか。私は考えた。問われた。葬儀屋の表情は世界どこにいっても同じだな、とエレベーターの箱の中でドイツ人の葬儀屋の顔を眺めてちょっと感動したのではあるが、葬式は世界共通、でも形式はいろいろある。もちろんそれがネットであってもいい。id:yskszk氏の不慮の死に際してもはてなの我々は同じことをしたではないか。私も冥福、にかんする翁の説明にナルホド、と思った。たまたま私は合掌、しか使わない人間ではあるが、でも今思う。燃したあとに骨がどの程度残るべきかといった心が磨り減るような議論をし、灰の法的な扱いの法律のややこしさに辟易し、文化的なギャップをアホかと思いいまやどうでもいい。冥福。イスラムの弟分は40日間ひげをそらない。それで彼女はうかばれる、と私は本気で思う。彼女は分子になったのだ。
ちなみに私の祖父は、某有名仏教宗派の総本山で十字架の入った墓石の下に何十年も眠っていた。困ります、と何度も言われたとのことである。葬式はチンパンジーでもする(ゴリラだったかな)。いわんや人間をや。