物語と反復

ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」に出てくる挿話のひとつに、主人公であるトマシュがとある経験談を繰り返し友人たちに話す場面がある。同じ内容の経験談なのだが、なんどもそのことを話すうちにトマシュの語り口はどんどん上達し、カフェなどでだべっていると友人たちが、もう一度あの話をしてくれ、とせがむようになる。そのうちに新聞にあの話をかかないかとさそわれ、トマシュは文章にそれをしたためる。出版されたその記事が共産主義政権下のチェコスロバキアの思想警察の目にとまり、(いかなる内容であったのか私はわすれてしまったのだが)警察に尋問をうけることになる。以後、外科医であったトマシュの人生は変転し、窓拭きとして日々を暮らすことになる。
同じ話をなんどもするのか、妙なものだと思ったのはこれを読んだ今をさかのぼること10数年前当時なのだが、考えてみれば日本で同じ話を話芸のようになんども話すことはあまりない。同じネタがなんども繰り返されるといえば、落語ぐらいだろうか。同じ仲間に二度同じ話をするのは「またそのネタか」と思われてしまうかもしれないのでなんとなく控えるし、友人にまたあの話をしてくれ、とせがむこともあまりない。話芸が洗練されきって道(落語)になったということなのか。
あの話をまたしてくれと私がせがまれるようになったのはヨーロッパにきてからで、ビールなぞを飲んでいると「そういえばあの話をまたしてよ」といわれる。また話すのか、と思っていたのだが、なんども繰り返しているうちにだんだんと勘所などがわかりはじめ、リズムやタメなどを意識しはじめる。加えて話といえるほどでもないと思っていた内容が、繰り返されるうちに細かく詳しくなりいつしか小噺になっている。たとえば”ニースの海岸でおぼえたてのフランス語を使ってナンパしようとしたら相手がアメリカ人だった”とか、”オクトーバーフェストの男子トイレにおけるコミュニケーションについて”とか、”現代社会における配管のメタファー”とか”真冬にセーター一枚サンダル履きのまま鍵を忘れてゴミ捨てに外出したときにいかにして再び家に入ったか”とか”シエスタで静まり返ったシチリアの村で腹を減らした私はいかに飯にありついたか”などなどあまたあり、どれもどうしょもない話ばかりなのだが、いつのまにかそれは物語に成長している。「またあの話してよ」とひとりの友人がいう。私の順番が回ってきたわけだ。友人たちが話を聞く態勢に入る。それを眺めるたびに、私はトマシュを一瞬思い出す。