排除体積効果について

このエントリー
2007-07-09 『WEB2.0時代』のアーティスト代表例(おっさん向け)
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20070709/p1

そのあとにこれ
2007-07-14 「アキハバラ解放デモ」への批判に関する雑感。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20070714/p1

というのは、実はとてもおもしろい。なにがおもしろいか、と説明しようとすると、触発されて考えることが多い、というだけなのだが、

そもそも、「レコード」が「ライブ音楽を収録する為に使われていた」なんて何十年も前の話。現在では、「ライブ音楽をレコードに収録する」という手法と「レコード音楽をライブで再現する」という手法は等価になっており、文化的な価値に差異はない。ライブでの一過性を求められるアーティストもいれば、レコードの再現性を求められるアーティストもいる。求める側のファンも同様だ(「他人のレコードをかけるだけ」のDJが、なぜあんなに人気なのかを考えてみればいい)。

これにはたと私が想起したのが、2ch(いわばレコーディング芸術)とデモ(ライブ芸術)のという比喩的関係である。いずれも多人数による表象なので、2chって結局デモじゃん(すなわち等価)、となんとなく私は思っていた。
が、ライブの重要な要素は排除体積効果である。なんらかの意味でそこにたくさんの人がいる、という不可侵性と協同性。ライブに参加する、という経験のひとつの重要な点は他に観客がいる、という点である。サッカーの試合にサポーターとして観客席に座るリアルさは、そこに他の人間がいてたまたま同じチームを応援しているという、三次元的な空間認識である。実はデモもまた同じことだ。目的はどうであれ。その意味では等価ではないのであり、この実態空間を共有しているかいなか、という差が「ホンモノかコピーか」というありがちな、かつもはやほぼ受け手の自己満足でしかない差よりも私は正しい解釈だ、と思うのである。これは、人が存在することの排除体積効果の実感にほかならない。
私が経験した記憶に残るデモは、マーティン・ルーサー・キングJrが1963年に行ったワシントン大行進(I have a dreamの演説、といったら知っている人は多いかもしれない)の20周年記念で行われた、同じ場所での集会である。デモではあるのだが、別に公道を閉鎖して練り歩く、とかではなくて、かつてキング牧師が演説をしたリンカーン記念塔に設置された演台の前に膨大な数の人々がごちゃごちゃと座り込んだり立ち話して、よく聞こえるか聞こえないかわからないような演説を、夏の埃っぽい空気の中でたくさんの人が空間を共有している、という経験だった。たまたま住んでいた中学生だったのでこの程度の認識だったけれどなにしろそこにてんでばらばらの雰囲気で、それでも人がいるということが印象に残った。
次に思い出すのは、はるか後、ミュンヘンの市庁舎前マリエンプラッツの広場で行われた反ネオナチの集会だ。たまたま近くで遊んでいて結果として参加することになったこの集会はまともに企画されたものではなかった。ナチスの誕生の地であるミュンヘンの中心の広場でネオナチが集会を開くと報道されたので、その日土曜の午後、反対する人々と野次馬が集まった。リンカーン記念塔の前に比べたら遥かに小さいその広場は、集まった人で広場が一杯になってしまい結果としてネオナチが入れなかった、という排除体積効果そのものとなった。デモ、ないしは人が集まることのリアルさというのは、結局このことではないか。
人が集まり、空間を占有してしまうこと、その占有していることを肌で感じること。だからなんだ、ということではないのだが、自分がたまたま社会の一員であることもあり、存在するだけでなにか(体積)を持っているということを体で感じること、というのはなんにしてもエロチックで直裁でスゴイ。だからライブでもデモでもサッカーの試合でも、この感覚の覚醒と変容は同様にスゴイことなのであり、大差はない。したがって、デモはやればいいのである。無意味でもいい。もはやなくなった祭りと一緒だ。満員電車に日本人は乗りすぎでこの原始的な感覚を忘れているのかも、と書いたことも実は前にあるのだが(その倒錯ぶりがスゴイと逆に私は思う)、だとしたら自分が自分の意志である場所の体積を占めること、を意識化するのは精神病理学的にもますます重要なことかもしれない。まず、そこから始まるのであり、デモとしての体裁、交渉の効率性がどうのこうの、オーガニゼーーションがどうのこうの、といっているのは目下の社会における社会性のヘタレぶりを認識していない夢想家であろう。