トリビアルの力

細胞内のシグナリングネットワークは実に複雑怪奇で、というのも通常人間が考えるような機械の設計とは発想が違っているからである。たとえばたんぱく質のリン酸化カスケード、という環境情報のプロセッシングでよく登場する仕組みがあるのだが、リン酸化のステップが幾重にもかさなっていて、たとえばMAPカイネースカイネースカイネースカイネース(カイネースはリン酸化酵素のこと)などという冗談のような名前の酵素さえある。機械でいえばステップが増えるほどエラーも増幅されるので、悪い設計、ということになるのだが、どうもそうではない。どちらかというと、こうした幾重ものステップが存在し、それにフィードバックが何度もかかることで、限られた数の安定した出力を行う(たとえばbistableといったコンセプト)、という作動そのものが出力の安定性を保障するシステムになっているのである。加えてこうしたシステムは、外部入力の内容によって特定のたんぱく質があるわけではなく、同じたんぱく質が入力の種類によって異なる”配線”によって接続されて特異的な機能という出力を行う。
・・・というような話をネイチャーセルバイオロジーのレビューが編集部から帰ってきて目下庭のテーブルでもくもくとタバコの煙を巻き上げながらその論文を再推敲中ののっぽなスイス人としていた。そうこうしているうちになんとなく思ったのが、人間の人生にも似ているな、ということ。日々の暮らしの中ではさまざまに枝葉末端、トリビアルな事象が生じ、それに対応しているが、それが繰り返されているうちにトリビアルに満ちた一年にもなんとなく方向性が見えている。それが重なるうちにそうした方向性が人生そのものになっている。もちろん意志の問題はあるが、トリビアルと人生を対置したときに、トリビアルの持つ推進力、みたいなものを私は細胞と人間に想像するのだった。