フクザツな問題をめぐって

従軍慰安婦をめぐる議論というのはかなりの蓄積があるのだが一見するとあまりの複雑さにその議論を知ろうとするのさえためらわれてしまう。事実が複雑であることのみならず、論点があまりにも多様だからである。全部あげることはできないけれど、目下私がなんとなく思っている問題点は次のような感じ。

  • 今現在の外交問題としてどう扱うのか。
  • フェミニズムの成果と慰安婦問題の顕在化。
  • 歴史の記述としての問題。時間・空間的にさまざまな慰安婦という存在の多様性をいかに記述するのか。
  • 売春という社会関係の問題。
  • 個人と国家という関係性・契約の問題。
  • 歴史を裁く、という観点に対するさまざまな立場の問題。
  • 前線という状況jにおける性のありかたと、男女関係という問題。

もちろんこれはざっとリストしただけなので、うまく分類されているとはいえない。とはいえ私がさまざまな議論を眺めていて感想を抱くのはこうしたさまざまな観点からの問題点が、それぞれ自体の問題さえもががクリアーでないうちに錯綜し、結局この議論はなんだったのかよくわからない不発に終わるということである。観点が明確でなくとも議論は可能だから結論がでないことがあるのも当然である。でもどこかすれ違ったまま、ホットな議論が進行しのこるのは拡散となにやら不毛な気分。
複雑な問題を前にしたときに、もっとも簡単で有効なのは「問いはなにか」ということをまず明確にすることだ。しかし上にリストしたようなさまざまな点は、それを明確にすることの難しさのみならず、明確にしてしまってよいのか、という疑念さえも私の中に生み出す。この複雑な網目の条件下にある問いを単に要素に還元してしまうだけでは見失うデメリットのほうが明確になることのメリットよりも大きいような気がしてしまうからである。
しかも今の状況でなんとなく問題が輪をかけてうやむやに消えてしまいそうな気がしているのは、米議会による非難決議がまず確実にとおりそうであるということと、それに対する日本の歴史修正主義者たちの抵抗がみじめな敗北におわりそうである、という現状を鑑みてそんな気がしている。これは日本の人々が何度も眺めてきた外圧(主に米国)に屈する日本、というステロタイプ化された姿だ。しかしながらその繰り返される抑圧と劣等感自体がたとえば今回の「狭義の強制否定」にみられるような内向きの自慰史観を駆動し再生産させている、という私の見方からすれば、病理に燃料投下というなんとも希望のない話なのである。(この項続く予定。そもそもOdakinさんと永井さんに向けてかくつもりだった)