卑劣であること
上で書いたような慣性は”事態の傍観”という受動的なものに限ったものではない。20世紀前半に日本軍が東アジア・東南アジアで行ったさまざまな暴虐に関しても今のわれわれからすれば36歳の強姦魔とたいして変わらぬことをしていたともいえるわけだが、少なくとも慣性という部分だけ抽出すれば「乗客」と「兵士」、その構造は共通している。われわれはかくまで雰囲気に飲まれやすい。軍隊という中にあり、侵略が日常となるなかにあれば、いとも簡単にその慣性に乗って上記強姦魔のようなこともするのだろう。あたかも傍観者である「乗客」のごとく。この暴虐に荒ぶるしかしながら単なる慣性をわれわれは身をもって今この瞬間に体験することは難しい。今の時点から見れば、それは度し難いことにほかならぬ。自分が「乗客」であったかもしれぬことにいたる想像よりも、もうすこし想像力が必要となる。しかしながら、「乗客」にしても「旧日本軍兵士」にしても慣性に乗っていた、という点においてあまりそこに差はないように私は思う。しかもその慣性をさして人々は「卑劣である」と糾弾してみたり、真逆の「そんなことをするはずがない」と歴史修正を行っている。なんともこっけいなことである。無言の「乗客」であった、ということはすなわち「そんなことがあった」ことの傍証に私にはみえてしかたがないのだ。