卑劣だろうか。

1995年にオウムの地下鉄サリンテロがあったときに、泡を吹いて倒れる人々を横目に人々は日々の業務へと急いだ。現場に居合わせた辺見庸は”またぎこして”とさえ形容している。

36歳男が特急車内で女性乱暴容疑 乗客、制止せず

車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣

これを卑劣というならば、なぜあのときのことを人々は思い出さないのか、と思う。サリンではなく駅のホームで貧血でぶっ倒れ、頭がコンクリートのプラットホームにあたって鈍い音がした女性がいるのに何事もなかったように新聞を広げたままの通勤客や、某予備校の200人の生徒がひしめく教室で、癲癇で叫びながらもだえ始めたそのうちの一人を前に、シーンと静まりかえる教室を私は思い出す。これは卑劣なのではなく、単にその場にいる人が、それぞれの日常の慣性の強度に押し流されているだけなのだからだと思う*1。だとしたらそれは卑劣、というよりもそのような慣性に抗うことのできぬ理性(reasoning)を問うべきなのである。上記の強姦事件の現場に居合わせた人々を、そのことに対して行動をしなかったという点で非難すべきではない。異常を日常に回収する、あるいは異常であることを感じなくなっているという点にこそ焦点があてられるべきなのである。

現場というのは実に静かなものである。感情を掻き立てる音楽もないし、ヒステリックな解説もない。ヴァージニア・テックで学生がケータイで撮影した映像をウェブで眺めながら、その背後の学生の普通に談笑する声を聞いて、ああ、これだ、と私は何度も思った。阪神大震災の直後の静寂も私は思い出す。現場というのはそのようなものなのである。

*1:”慣性”という言葉も辺見さんが使っていて、ああ、そうだ、と思った。