法令総数の年次変化

年々法律は制定されるわけだから、その様子を眺めていると一方的に増えていっているような気がする。このままほうっておけば、増えるばかりで世の中どんどん窮屈になると漠然と思っている。「廃止」「停止」や「失効」を考慮するしても、編みこむがごとく増え続ける法令に人間はどんどん不自由になるばかり、なんておもって、昭和20年以来の法令の総数の変化のグラフをみたいなあと考えた(イメージとしては単調増加)。でも探したけどそんなグラフどこにもない。ちょっと時間をかければ「法令データベース」から手作業で数を抜けるので、だれかやらないかなあ。大学のレポートにいいぞ。

法令データベース

探している途中でみかけた、似たようなことを考える人は昔にもいたのだ、という話。

 特にこの時代に制定された工場法は、現在の私たちにも関係する労働法の基礎となったものです。現在、国会で制定されている法令の数の方がヴィクトリア後期に比べると勝っているかもしれません。しかし、法令がつぎつぎに制定され、人間が知らないあいだに数多くの制度やシステムに絡め取られていっている、その状態はヴィクトリア後期も現代も何ら変わりはありません。こうした状態は、私たち「人間の個性」や自由を束縛するものとなってはいないでしょうか。
 
 この『人間対国家』におけるスペンサーの主張は、現代教育の問題点の核心部分を突いているといえるのではないでしょうか。「個性を尊重する教育」をいまの小学校や中学校では目指そうとしていますね。みなさんには、そのような目標を掲げなければならなくなってしまった、そもそもの社会的原因がどこにあったのかをよく知ってほしいと思います。
 
 当時の教育法についても、スペンサーは同じような主張を繰り返しています。初等教育が実施されるようになると、児童を幼い頃から画一的な教育制度の中に入れ込んでしまい、やはり個々の個性がつぶされてしまうのではないか、とスペンサーは主張しています。また、工場法と教育法がつぎつぎに制定される事態から、ヴィクトリア時代をスペンサーは「奴隷制到来」の時代と述べています。個々の人間が国家によって個性を押しつぶされるのは、人間が「奴隷」に成り下がったとしか考えられない、というわけです。
 
 このような制度をつぎつぎに人間に対して課していく政治家に対し、スペンサーが不信感を抱いていたとしても何の不思議もありません。人間本来の在り方を追求してしまった彼にとっては、ヴィクトリア時代の政治家が国家権力に振り回されて、自らの欲望だけのために邁進する存在に映っていたからです。しかし、その当の政治家が行っている法律制定といった政治活動も、巨大な国家というシステムの前では微々たる影響しか与えることはできないのです。

挾本佳代さん 2005年6月28日(火)前期第10回講義

[追記]
ちらちらみてみたら88年から98年の間の変化がわかる記事があった。これによると10年間で
法律 1554 → 1692
政令 1872 → 1938

これがこのまま続くわけがないよな。

1988年1月時点のやや古い数字であるが、わが国の現行法令の数は、
法律・1554
政令・1872
府省令・2464
合わせて5880
「行政法」雑感 平岡 久 1993年 4月

ところで、わが国の法令の数はどれくらいあるのかご存知ですか。本年2月現在、法律は1、692件、政令は1、938件です。実に3、630件もの法令があります。しかも、毎年増え続けています。
悪法・愚法を総ざらいしよう 1998年6月2日号