「並列化しようよ」とタチコマは言った。

週末に二つ映画を観た。ひとつは「Children of Men (邦題はトゥモーロー・ワールド)」もうひとつは日本のアニメ、「攻殻機動隊2ndGig Individual Eleven」。どっちもとてもおもしろかった。「攻殻機動隊」は、その内容の複雑さにこれがさくっとテレビで放映される日本の視聴者レベルの高さに感心する(そもそもは深夜枠のテレビシリーズだったのだとか)。この10年の日本の漫画とかでもよくみかける”日本の米国からの独立”をテーマともするその内容に関して細かく感想をかくつもりはないのだが、たまたまなことにいずれも不法移民や難民の問題が背景になった映画で、通常の市民と不法移民や難民を分かつフェンスが目にやきついた。フェンスごしに罵倒したり缶を投げたりする移民・難民の姿がいずれにも登場するので、かたや実写、かたやアニメなのにどちらがどちらだったのか、曖昧になってしまうほど似通った背景だった。自分の中では、米国からメキシコへの国境を80年代なかばに歩いて渡ったときのことが思い出されてならなかった。フェンスの金網から手が何本も出ていて、金をくれ、といいながらこちらを見るいくつもの目、目、目、目。
現実の日本における生活保護政策の縮小が国内難民をうんでたとえば”自己責任”で餓死する30代のサラリーマンを生み出すのとくらべれば(参照youtubeニッポン貧困社会)よっぽどワイルドだが、このワイルドさはいわばあたりまえの生命力でもある。餓死するまでなにもできない現実の日本の弱者およびそれを座視する強者は、その異常さに応答できないほど去勢されているのか、と思う。森岡さんが”無痛文明”と呼んでいるけど、無痛ではなくて麻酔だ。70年代、80年代という麻酔。
目前にある格差に「こりゃなんとかしなければ」と思うのが天然の意味での左翼だと思うのだが、左翼という存在にはマルクス主義という経歴が印籠のごとく押されている。だから

「左翼はキレイゴトでナイーブ」と陳腐なものとされてしまった言説をもう一度真正面から向き合うべきだと思う。
「怒り」の剥奪
女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

不可視な光学迷彩フェンスを前にしてなにを考えるのかどうするか、ということでもある。