説明責任

アカウンタビリティ、すなわち学問の世界では、研究内容を一般向けにやさしく説明する義務が強調されることがある。特に「税金を使っているのだから」ということで、なのだが、これがなかなか難しい。純粋な科学に近づくほど、これはどうも難しくなる。具体的な目に見える成果を提示することができないからである。生物の場合であれば、かなり理論的なことをやっていても「人間の健康を守るため」といった題目に接続させることがそれほど難しいことではない。(ただ、これをやると私は心が痛むのでなるべく本当のおもしろいところをしゃべろうと努力する)抽象的な理論、特に数学などはどうしているのかなあ、などと思う。生物をやっている人間の目からすれば、ああ、これはこんな問題を解くときに使われるかもしれないなあ、とあやふやながらその理論がテクノロジーとして役にたつ可能性を見たりすることもある。でも、まったくの普通の非研究者にそれを説明しろ、というタスクを与えられたらかなり躊躇してしまう。
法王の”失言”事件はどうもそうしたアカウンタビリティの問題で捉えるほうがよいのではないかと思う。誤解の大部分は、演説の内容が少々複雑だった、ということにつきる。その少々の複雑さが、あっというまに911以後のシュプレッヒコールである「イスラム対キリスト」ないしは「欧米対中東」の単純な構図に回収されてしまった、ということなのだ。したがって今必要なのは、法王のいいたかったことを「イスラム対キリスト」に比肩できるほど平易な構図の「理性と信仰」に翻訳する人間である。法王であるのだから、それを自ら行える、というのが一番いいのだろうけれど、どうもかなりの学究肌の方のようで、経歴を見るに彼のバチカンにおける評価は、そうした緻密な知識と論理に拠っているのではないかと思われる。だとしたら、これから万人の間に響くような言葉をしゃべることのできる人間になりかわるには、それなりのトレーニングが必要だろう(講義の最初から最後まで黒板に向かって独語をし、板書をしつづける学生が寝そうになってしまうような教授を思い起こせばよい。)。しかしながらこの訓練を施している時間はもはやない。目下の余波を見ても、誤解が誤解を生んでいるという状況なのである。”宗教のアカウンタビリティ”というとなにやら語義反復のようなのだが(宗教は本来それに帰依する人間をアカウントしてくれるものだろう)、宗教間の対立があおられるような世界の状況の中では、抜き差しならぬ義務なのだと思う。これだけ情報の錯綜する世界の中では宗教はそれに帰依するものだけではなく、その外部に対しても説明義務を負う、ということになるのである。