誤謬
日本の政治家が母校での講演で口が緩んで人種差別発言をすることがある。緩んでいるんだからまさに本心、というわけで、ますます問題になる。
目下のローマ法王の発言問題もそんな感じなのかな、と勝手に思っていた*1。
私が最初にニュースを知ったのは、トルコ系フランス人の友人からだった。なーんか、フランスで騒いでいる、というような話で、彼のヒトコト解説は「ローマ法王がモハメッドを非難した」というような上の時事通信の記事と同じような要旨だった。よくまあ、そんな無茶するなあ、と思ってそのままだったのだが、さっき公式英語訳を読んでみた。06年9月12日付の演説である。バチカンのウエブサイトに掲載されている。聴衆はヘッダーに書かれているように、南ドイツの大学の人たち。内容はかなり難解である。このまま喋っているのを聞いても、私にとってはなんたらの耳に念仏、である。論旨が難解というよりも回りくどいいいかたをするので、ややこしいのである。であるが、ともかくも大学人に向けた内容だけに、神学。キリスト教史である。読んでいて結構おもしろかった。
今上ローマ法王はかつては大学の教員だったのであり「あのころの大学には秘書もアシスタントもいなくて、毎日放課後にはさまざまな分野の教授たちが集まっていろいろな話をしたものです」と当事の思い出から目下のタコツボ化した大学を皮肉るつもりもあるのか、なんともセンチメンタルに演説は始まる。その演説の中心にある問いは次のようなものである。
At this point, as far as understanding of God and thus the concrete practice of religion is concerned, we are faced with an unavoidable dilemma. Is the conviction that acting unreasonably contradicts God's nature merely a Greek idea, or is it always and intrinsically true?
”非理性的に行動することは神のあり方とは矛盾する、という考え方は、単にギリシャ的な思想なのか、それともそれは本質的に正しいのか”という問いである。この問いは、キリスト信仰がいかにしてギリシャ的な理性と融合するにいたったか、という近世、現代、最後には本人にまでいたる研究の話に展開されてゆく。要約すれば、この融合・展開には歴史的な経緯がきっちりある、ということになる。後半は神学部がいかにして現代における大学の中で生きてゆくのか、という切実な話になる。この点に関しては、前半で述べたようにそもそもキリスト教は信仰と理性を融合させた宗教なのである、まさに理性の学問だ、がんばりなさい、とはげます結論となる。
新聞・イスラム圏が問題にしている部分は、この問いを立てるための直前にあたる。話を進める端緒として、ビザンティンの皇帝が1391年ごろ行ったダイアログを引用するところから始まる。このダイアログは場所と時代を反映して、旧約聖書、新約聖書、コーランを引用しつつ、その内容を比較するものであった。ローマ法王は、この議論のうち、理性と信仰に関する部分を引用する。その引用の中に問題の部分がある。
In the seventh conversation [text unclear] edited by Professor Khoury, the emperor touches on the theme of the holy war. The emperor must have known that surah 2, 256 reads: "There is no compulsion in religion".
According to the experts, this is one of the suras of the early period, when Mohammed was still powerless and under threat. But naturally the emperor also knew the instructions, developed later and recorded in the Qur'an, concerning holy war.
Without descending to details, such as the difference in treatment accorded to those who have the "Book" and the "infidels", he addresses his interlocutor with a startling brusqueness on the central question about the relationship between religion and violence in general, saying: "Show me just what Mohammed brought that was new, and there you will find things only evil and inhuman, such as his command to spread by the sword the faith he preached".
The emperor, after having expressed himself so forcefully, goes on to explain in detail the reasons why spreading the faith through violence is something unreasonable. Violence is incompatible with the nature of God and the nature of the soul. "God", he says, "is not pleased by blood - and not acting reasonably ... is contrary to God's nature. Faith is born of the soul, not the body. Whoever would lead someone to faith needs the ability to speak well and to reason properly, without violence and threats... To convince a reasonable soul, one does not need a strong arm, or weapons of any kind, or any other means of threatening a person with death...".
The decisive statement in this argument against violent conversion is this: not to act in accordance with reason is contrary to God's nature. The editor, Theodore Khoury, observes: For the emperor, as a Byzantine shaped by Greek philosophy, this statement is self-evident.
黒字にした部分が問題になっている箇所である。全体の文脈の中では、つぎのように要約できる。キリスト教とイスラム教をブリッジする位置に歴史的にも地理的にもあったこの皇帝が、モハメッドを批判した。このことは、ギリシャ的な理性を皇帝が踏まえているから、というのは明らかである。だとしたら、信仰と理性の融合は果たしてギリシャの思想を背景にしてのみ可能なのか、という問いに接続されてゆくのだ。
目下騒動になっているのは「モハメッドを糾弾した」ないしはもう少しましなバージョンでは「モハメッドを糾弾する歴史的文書を引用した」といったことなのだが、文章を読めばこれがかなりの見当違いなのはあきらかである。ザ・オリエンタリズムの問題として、「イスラムの信仰には理性がないけどキリスト教にはある」という点に注目して批判するならば、わたしは納得する。
まあ、法王がこんなに専門的で踏み込んだ話をする、というところにも問題があったのだろう(私はいいな、とおもうけど、世の中では許されないようである)。いってみれば、日本のトップロイヤルがある日突然、「朝鮮半島渡来民族と天皇の系譜について」などといった内容で専門的な話をしだすようなものである。それにしても、メディアの情報のスクリーニングの粗雑さ、法王ネタということで売れると見込んだのかもしれないが、そしてそれに見事に踊ってしまう人間の両方、実に浅はかである。