言文一致運動の夜

関係ないのだが、上のイタリア語で思い出した。昨夜イタリア人にカタカナを教えていた。頼まれたわけではなくて、日本語の表記はどうなっているのだ、という話をしていたら彼がおもしろがるのでいつのまにか二時間にわたるカタカナ講習になってしまったのである。母音と子音の組み合わせでなりたつカタカナのシステムを教えて、この表を見れば一発でかける、と教えた。新奇さにとりつかれたのか、自分の名前などをカタカナで表記して、これであっているか、などと私に確認するのだが、これがかなりおもしろいことになっていた。彼の名前はMazzaで、私の耳ではマッツァなのだが彼に書かせるとマッザァになる。”ツ”の音が彼にはできないので、ツと表記すると”トゥ”になってしまう。したがってザの方が、近い、とかれはいう。あるいは「ヨーロッパ」を彼に書かせると「エウロパ」になる。「カフェ」は「カッフェ」。大正時代の大衆文学な雰囲気である。思えば「ゲーテ」なども実際にドイツ語で発音するときには「ギヨエテ」と昔風の表記で発音したほうがよく通じる。そんなことを彼と話していたら、そうかー、だから日本人は外国語が下手なんだ、と彼は言っていた。私もなるほどなあ、と思う。日本人は外国語をカタカナにコンバートしてしまう。コンバートされたときからそれはかなり近似の悪い音になっているのだが、カタカナからわれわれは頭を引っぺがすことができないのだ。かくして音に対する感受性が鈍化する。いずれにしろ、カタカナ・コンバージョンにかなり熟達した後、彼はよおし、最終テスト、といいながら日本語で歌える唯一の歌のテクストをカタカナで表記しはじめた。「上を向いて歩こう」である。なかなかうまくいっていたのであるが、彼がしたためた”ひとりぼっちのよる”は”イットリボッチノヨッル”。確かに歌っているときはそうかもなあ。