当事者多発

例えば古代史を眺めるときと現代史を眺めるときでは何が一番違うかといえば、時間のスパンである。例えば奈良時代のことといえば数十年単位で物事が起きるので、そこに関わる人間が全く別の人間であることはあたりまえのことなのだが、現代史は違う。やたらと事件は起こり、そこに携わる人間は同じ人間であったりする。このところ立花隆の「東大と天皇」をぽつぽつと読んでいるのだが、ここに登場する戦前の過激な右翼思想の青年たちはたかだか私の祖母祖父ぐらいの世代(全員他界しているが)なのであり、肉感的な連続性、圧倒的な連続性を感じざるを得なくなる。近年ヤスクニだのなんだの、と叫んでいる首相議員なぞはまさに彼らの子や孫である。ついでに同じように圧倒的な資料を駆使した小熊英二の戦後史「民主と愛国」もあわせれば、日本の戦前・戦後がいかに連続してひとつの”二十世紀”であるのかを知ることになる。あるいは私がふと思ったのは、自分が生まれた25年前強には現実にこのひどく「国体明徴」な日本だったのであり、一方で私はその25年よりもはるかに長い時間を生きていることである。こうしたことを考えていると日本を考えるときに戦前・戦後という枠組みに自分がいかに毒されているのか、ということを顧みずにはいられなくなる。”過去の人”ミロシェビッチを眺める視線と、目下の世界情勢を眺める視線が同じ人間たちである、と昨日思ったのもそんな理由である。無論、その”同じ人間”は私でもある。
立花隆は序論で次のようなことを書いている。5歳で迎えた日本の敗戦を語り、「私は子供のときから、日本はどうしてこんな国になってしまったのか、なぜこんな大失敗をしてしまったのかを、最大の疑問として生きてきた。」私はこれを読んだ瞬間に司馬遼太郎を思い出した。彼も同じことを中国大陸で向かえた敗戦の際に思いそれを胸に歴史を書きつづけたという。ここにもなにか、クロスする肉体的なもの・連続性を感じる。

「天皇と東大」毎日新聞書評

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

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〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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