盆も正月も

1月1日に新宿をウロウロと散歩していた。ガラガラの都心を歩く目的だったのだが、結構な人出で思ったよりもにぎやかだった。百貨店はどこも閉まっており、開いている本屋もなかったが、それでも人々が徘徊している。私のように、ガラガラの新宿をうろつこう、という目的の人たちだったのかもしれない。南口の階段を下りた広場に人がほとんどいない、という光景を私は期待していたのだが、スケボー少年たちはいつものようにガラガラと滑っていたし(初滑り、ということか)、チラシをくばるおにいさん達もいつものままだった。セコハンの電気屋は煌煌と電気を灯して営業していた。唯一期待どうりだったのが、南口の高島屋の木造回廊(っていうのかな)で、すれ違った二、三人を除けば人はいなかった。JRのプラットホームを眺めながらベンチに座ってタバコに火をつけ、静まり返った巨大な空間に、いやー、正月正月、などとちょっと喜んだのだった。東口にあるコーヒー屋に入ってみるとそこはやたらとガイジンの一人客だらけ。正月でいくところがないんだろうなあ、クリスマス難民と同じだよなあ、うんうん、などと思いつつ一杯のエスプレッソドッピオで粘って3時間ほど本を読んでから私は店を出た。
郊外型の大型店舗では正月の営業はほぼ当たり前になっていて、「初売り」などと称し正月もあさっぱらから開店し店員は忙しく動き回っている。正月の三箇日といえば少し昔であれば開いている店などなかったのだが、営業しているスーパーもあるし、コンビニはしまることがない。幼少のころを思い出なのだが、年末には母の頼みで庭に穴を掘った。意味もなく穴を掘ることが趣味だった私は、その穴掘り技術に与えられた社会使命に喜びながら作業をすすめ、出来上がった穴にダンボール、新聞紙なぞををひいて母が買い込んできた保存の効く深谷ねぎなどの野菜を結構な量貯蔵したものだった。今ならばそんなことする必要もない。便利になったものだ、とも思うのだが、考えるまでもなく正月に働いている人が結構な人数いる、ということでもある。”盆も正月もない”という言い方がかつてはあったのだが、この表現にあてはまる人々が今やとてもたくさんいるのであり、他の人間が休んでいる間に自分は働いて少しでもお金を稼ごう、ということなのだと解釈できる。金を稼ぎ生計を立てることは重要である。しかし正月もはたらかねばならぬ、その背後に転落、落伍者になることへの恐怖があるのだとしたら、”盆も正月もない”状態は一種の強迫であって、”自由な商行為”というよりも”自己責任”の暗渠でしかないのではないだろうか・・・ なんてことを思ったのはこのところ下記リンクにある毎日の連載を読んでいたからなのだった。
縦並び社会・格差の現場から