引越しにおける隠蔽工作

ドイツの引越しは大行事である。なぜかといえば、身の回りのもの、家具を移動させるにのみならず、台所を解体し、壁を全て塗りなおさねばならないからである。がらんどうの状態で家主に引き渡さねばならぬ、という賃貸契約がほとんどの場合であり、かくして引越しは(1)箱詰め(2)箱・家具の運び出し(3)台所の解体(4)ペンキ塗り(5)大掃除と進行することになり、日本人からすれば実に余計な手間がかかる。
かくして、友人に引越しの手伝いを頼むのは当たり前のこととなっている。頼まれたほうもその難儀であることを知っているがゆえに、冠婚葬祭でもないかぎり手伝う。週末は空手チャンピョンの引越しの手伝いで、運び出し、ペンキ塗りを終日手伝っていた。家主への引渡しが10月31日朝ということになっていたので、30日中に絶対に終えなければいけない、ということになる。朝9時より開始し、ポルトガル人と私、チャンピョン本人でペンキまみれになって全ての壁を塗り終えたのは夜の9時だった。
汚れた壁を見たときに私ならばたわしでみがき、雑巾で拭いてきれいにしよう、と私ならばまず考えるのだが、そうではなく、ドイツ人の場合、全部上塗りしてしまう、ということになる。きれいにする、という発想が違うのではないか、と私は思う。汚れを落とす、のではなく汚れを隠蔽するのである。何世代もの上塗りの結果、壁を抉れば何層もの汚れたレイヤーがあるに違いないのだ。これを「きれいにする」と果たして本当にいうことができるのだろうか、と私は思いながら壁を塗っていた。ヨゴレを糊塗して綺麗です、と主張するのはどうも私の感覚にあわない。
なお、引越しの際のこの厳しいペンキ塗り評価基準はヨーロッパに一般的なわけではないらしい。少なくともフランス人、イタリア人、スペイン人、ポルトガル人に聞く限り、ドイツにだけ特別なキマリだよ、とのことである。新しい家に入って壁が汚いないし色が嫌いだったら塗るけれど、出るときに塗んなきゃいけないって厳しいよなあ、という。ちなみに私の家のペンキ塗りは二週間後に迫っている。
ペンキ塗りも面倒だが、特に腹立たしいのが洗濯機の運び出しである。ドイツの洗濯機は通常側装填のドラム式で、これが重量100キロ以上あって(本当の重量は計ったことがないので知らないのだが)男二人でも往生する重さである。これを例えばアパートの4階、エレベーターなしから下ろすとなると一騒動であって、私はそのたびに日本の軽々としたプラスチック製トップローダー洗濯機の素晴らしさを褒め称え、われわれはあの洗濯機の輸入ビジネスをすぐにでも開始すべきである、というと、理不尽な洗濯機の重さに半ば怒っている仲間たちもまさにそうである、洗濯機は軽く設計すべきである、と一同賛同するのだか、結局ドイツの洗濯機はいつも超ヘビー級である。絶望的かつ非日常的ななこの洗濯機の重さを、ここでどうやって言葉で伝えたらいいのかわからないのだが、ともかくも重いのである。ましてや、洗濯機が長年台所に置いてあった一ヶ月前の友人の引越しのケースでは、もち手が少ない上に、隙間からにじみ出る油でつるつるとすべるので男5人で怒号と汗と共に(血と涙はなかったが)運び出すという事態に発展した。大騒ぎのたびに、なぜ洗濯機はいちど購入設置したら常駐、という暗黙のルールができないのだろうか、と私は思うのだが、徹底して家を空にするという常識のほうが勝っているらしい。