本当の私を探す旅

本当の自分がどこかにいるはずであるという確信は、自分が誤読されているという反発と表裏一体である。などということを思うにつけ同時に思いだしたのが、「生命の核心はDNAである」というとてもスタティックな認識である。「本当の自分」と「DNA」はどこか似ている。「アガスティアの葉」でもかまわないのだが、そこに自分という存在の全て(すなわち限界、きわめて雑駁に言えばそれが内部と外部に境界線を引くということなのである)が記述されているはずであるという期待と信仰は、少なくともDNAに関して言えば随分と的の外れたことになる。いや、信仰だから裏切られる、か。
生命はダイナミックなネットワークで構成されている。さまざまな時定数をもつネットワークが集まってさらにことなるスケールの時定数をもつネットワークを、原子レベルから社会まで、スケールを上下に接続させながら構成する。構成、であるが常に揺動しているネットワークなので定まることがない。またこのネットワークシステムは世間一般でいう「個人」という単位に限られるものではない。どちらかというと「生命の核心」はこうした記述の方があっているだろう、と思っている。無論DNAもこうしたダイナミックなネットワークの一部だ。ましてや「本当の自分」なんて。
私がイメージする「自分」はいろいろあるのだが、どんな自分が好きか、と言われると、バンコクの街角で宵の口に屋台のテーブルに座ってビールを飲んでいる自分を想起する。湿度も温度も高く座っているだけでも全身から汗がじわじわとしみだしてくる。慣れない気候に疲弊し、一日街をうろついたおかげで体はほこりだらけ。安っぽいビニールのテーブルクロスのかかったテーブルに腕を投げ出してだらしなく椅子に座り込んで、昼はあんなに死にそうな顔をして道路端に座り込んでいた男たちが暗くなるにつれてどんどん元気にきびきび動き始めるのを、さすが熱帯の人間だと熱で浮かされたような頭で眺めている。そうして半ば夢心地になっていると、スープや油で汚れたテーブルクロスに投げ出した腕が汗でヌルヌルとしているのに気が付く。通常であればうは、きたねえ、と思って腕を上げるのだが、そんな思いもおこらずにどうにでもなれ、とヌルヌルしほうだい。もはやそのヌルヌルは自分の汗なのか油汚れなのだかよくわからない。そうこうするうちにどこからどこまでが自分の皮膚で、テーブルクロスなのかさえもよく分からなくなってくる。延長、あるいは連続の感覚。