ボタンの不在

12時に不覚にも寝たのだが、朝3時に起きてしまい、1時間ほど上記の一冊をパラパラと読んでいた。

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

デモクラシーの冒険 (集英社新書)

二人の共著、日本のことを論ずる二人の外国人。”グローバリズム”という単語が喚起する球形にあまねく広まるイメージを破壊し、それが米国人・非米国人という二極的な疎外化に他ならないことを明確にしてくれる。世界の動向は米国が握っており、米国の選挙権を持っていない人間にデモクラシーは存在しないに等しい・・・そこにアパシーが生まれる、と二人は語る*1
これを表現して「押すべきボタンはどこに?」という問いかけかたは秀逸だと思う。行動生物学で、サルにボタンを押すとバナナが賞与される学習の実験がある。ボタンを押してもなにもでてこなければ、サルはバナナと自分の行動を結びつけることを諦めるだろう。
端的に米国人と非米国人(これはアナロジーでもあるが)を実に見事に示したのが、昨年秋の大統領選後に見られた、"SORRY WORLD (We Tried) - HALF of AMERICA"という当事者達による発信、あるいはそれに対して慰さめ、励ます人々による米国外からの発信、はたまたこれに呼応し、ひらきなおった態度の世界に向けた発信などの例である。この構造は、デモクラシーの担当者が米国にしかなく、周囲の人間はハラハラしながらみてるだけ、という構造だ。

*1:複雑なことに米国という物理的の空間のなかにさえも米国人・非米国人は実際上の二極化として入れ子構造になっている。