PISA - OECD学力調査関連 続

一昨日に引き続き*1

ファインマンの「ご冗談でしょうファインマンさん」にたしか出てきた話だと思うのだが(もしかしたら、続編の方かもしれない)、ファインマン父がどのようにリチャード・ファインマンを教育したか、という一節がでてくる。ありゃ。もしかしたらアインシュタインだったかもしれない。でもアインシュタインの伝記は大人になってから読んでいないしなあ。まあ、どちらでもいいけれど、偉大な物理学者の話。
で、その偉大な物理学者の父は、「名前は重要ではない」と何度も教えたそうだ。すなわち、森の中を散歩しているときに、鳥や木の名前は重要ではない、鳥が何をして、木がなにをしているのか、が重要である、と教えるのだ。鳥や木の名前を覚えるのは楽しいことだ。名前が与えられることによって、どこか親近感が増し、その鳥や木のことを少しだけ知ったような気分になる。あれはコナラ、これはブナ、といった具合だ。
しかしながらそこに陥穽が待ち構えている。子供はなにかを知った気になってしまうのだ。名前が与えられたことによって、その鳥や木がどのように生命を営んでいるのかを知ることなく、知識として一定の満足感を与えてしまう。偉大なる物理学者の父は、名前は憶えなくてもいい、あの鳥がどんな風に枝を運び、巣を作るのかよく観察しろ、とか木の葉に巣食う虫がどんな風に穴をあけるのか、よくみなさい、と教えたのだった。
なんでこんな話をしているのかというと、先日ちょっと触れた、キーワード並列型レーポートを書く学生たちのことを少々考えていたからでえある。キーワードの並列行動は、名前を覚えること、に類似しているように私には思える。そのキーワードの背景にどのような体系があるのか、を知ることなく、キーワードに解説が与えられることで満足する。体系=システムを知ることへの欲望の軸がそこではかすんでしまうのかもしれない。私はかならずしもファインマンの父のように、名前は覚える必要ない、とまでは思わない。名前を覚えることでディテールを掘り下げることが可能になる、という利点もあるからだ(もしかしたら、実は子供の思考法の傾向を決定する点かもしれない)。とはいえ名前を覚えること、はコレクターの心性によく似ているのではないか、とも思う。名前を形式的にたくさん知ること自体が自己目的化してしまうのだ。
モノの名前を知ることがとても困難ならば、知ること自体に価値はあるだろう。山奥の隠れ寺院に秘蔵された仏典を探しに出かけるのは意味があるかもしれない。そこに重要な何かがかかれているかもしれないのだから。一方で情報がダラダラと満遍なく偏在している現状では、情報にアクセスすること自体に価値はない。アクセスすること自体が自己目的化していて閉鎖ループを描いているならばなおさら、それまでである。名前をひたすら覚えることのように、なにも生じないし、あらたな理解は生じない。少なくともそれは科学ではないのだ。昆虫採集は科学ではなく、博物学である。「データベース型」と東浩紀さんは「動物化するポストモダン」の中で名づけていたが、その行為は博物学的なところからちっとも変化していない。だからこそ、キーワード並列型レポートに、こりゃ退化だな、と私は思うのだ。キーワード萌え、である。
PISAの目的は、情報の活用能力を測ることにある、とある*2。もっともなことだ、と私は思う。教育は「知識を授ける」立場から撤退しなくてはならない。いくつのキーワードにアクセスできるか(記憶しているか)、情報を入手するテクをもっているか、といったアクセス能力、コピペ能力はもはや屑なのである。そこに体系を見出すことができなければ、すなわち活用できなければ、その情報にアクセスしている本人自身もまた、データベースの一部でしかないのだ。

*1:id:hatto8107さんに、賛同の声を頂いた。学生の低落傾向について。id:hatto8107:20041220#1103591967

*2:id:k-i-t:20041221#p3経由。