Jungle Walk
一昨日の夜10時過ぎに、知人のドイツ人建築家からオフィスに電話がかかってきた。ちょうど帰ろうと思っていたところだったので、そのまま話し込んで一時間も話しこんだ。私には良く理解できるとても根源的な問題の相談だっただけに、この二日間そのことをいろいろ考えている。
彼の相談は、次のようなものだった。日本人のとある若手建築家が、ドイツ語で出版される彼の師匠に関する紹介文一セクションを日本語で書いた。それをドイツ語に翻訳する仲介をしているのだが-即ち編集者の役割をしている-、どうにもこうにもわけのわからない文章で困っている、という。それぞれネイティブの英語の翻訳者二名、ドイツ語の翻訳者二名がそれぞれさんざん苦労して、議論するのだが、これでは本来の意図するところがうまく翻訳されていない、と執筆当事者の若手建築家はガンコに訳文の承認を拒否しつづけているのだそうだ。翻訳者が総計4名もかかわることになったのは、執筆者がこの人ではダメだ、と却下しつづけたからだという。
結局当の若手建築家自身が英語に自分の日本語の文章を翻訳する、ということになったのだが、これが翻訳者の訳した文章よりも数段輪をかけて難解になってしまった、という。要は日本語の普通のエッセイをそのまま訳してしまった、ということらしい。知人のドイツ人建築家は忙しい中連続の徹夜状態で直すのだが、直された文章がまた気に食わないらしい、という。知人としてはこのようなむちゃくちゃな文章を掲載するのは憚れるのだが時間もないし、この文章はもっと書き直す必要があることをいかに説得したらいいのか、教えて欲しい、という。
私もその文章を遡ること数週間前に読んでいるのだが、ははーん、典型的な日本インテリ文章だなあ、と思った。要はわかりにくい、のである。文章はさまざまな事実、例えばAからGまでのさまざまな具体的・抽象的なコンセプトないし実例を、いかにしてアレンジするか、ということでその構成が決定される。日本の文章は、AからB、AからC、突然E、Gを経てFを辿り、CとBが現れる、というような複雑な構成を辿ってもOKである。しかも例えば、Aという概念ないし例証のヒエラルキー内における相対的な位置と、Bの同じ意味での位置が、かなりずれていても許される。比喩暗喩が縦軸横軸を越え、コンセプトと実例が融通無碍に接続されていくのだ。しかも、であるが、これらの比喩暗喩ないし、めくばせ(”わかるでしょ”)は、それが可能になるための書かれていないさまざまな文脈が前提になっていることが多い。説明が与えられないのだ。
このわかりにくさは、日本語自体がそもそも文脈依存性の高い言語であるということにも拠っている。ある単語を聞いただけでそれがなにを意味するのかが、はっきりしない。文脈を参照にして初めて意味が確定できる。私はこれが、日本語の音の少なさによっているのではないか、と思っている。例えばタイ語では(昨日はまた別のところでタイ語について喋っていたのだが)、音の高さが5種類あることで、単語の確定を一意的に可能にしているそうである。日本語では「はし」の上がり下がりはあるものの、音だけ聞いていてもその意味は文脈=単語を取り囲む環境がなければ、判定しがたい。
というわけで、日本語の文章はジャングルを歩くようなものだ、と私は説明した。森の中を逍遥し、無礼講で接続されるさまざまなコンセプトを要所要所で眺めるうちに、なにか一貫した全体像らしきものが見えてくる。読者はそれを推し量ることが求められているのだ。結論は押し付けられないので、最後までクリアーにならない。知人のドイツ人は深く納得して、そう、そうなんだよ、ジャングルをあるいているみたいなんだ、でもジャングルではなにを言いたいのかわからない、どうしたらいいのだ、と電話の向こうで再び頭を抱えている。
一方で英語、ましてやドイツ語の文章では、AからGまでのコンセプトないし実例は、まず最初に問題提起があり、パラグラフA、パラグラフB、パラグラフC、と個々の問題に応じてパラグラフが割り当てられ、それぞれのパラグラフが小宇宙を形成する。小さな発題と小さな結論が毎回繰り返され、最後に大団円の結論に至る。極めてわかりやすい。単純だ。枝葉末端を切り落とさないと、こうした文章の書き方は不可能である。もちろんこの基本的な構成は、文章を書く人間の能力によってゆがめられたり縮小されたりするが、これが可能なのはまさに文章を書く能力があるからであって、単に難解な文章をかくことは能力とはいわない。ドイツ人が文章を書くのを見ていると、彼らはこの杓子定規な構成に対していとも簡単に自分の考えを当てはめていくことが可能なように見える。したがって、文章を書くのが非常に速い。しかも大抵の人間がそうなのである。ドイツ人は生まれつき文章を書くことができるのか、などと最初のころは驚いたものだが、最近その理由がわかるような気がしている。
おぼろげに私が思っている理由は、彼らの言語と、生活様式にある。どちらが先かはわからない。ドイツ語は言語自体がツリー状の非常に細かく概念が分割・カテゴリー化されている。したがって思考様式も、この考え・コンセプト・実例はここ、これはこっち、と論理構造の中のアドレス探しがほぼ自動的になされる。これは生活様式にも反映されている。ドイツ人はほぼ誰もが恐るべきファイリングの達人である。この書類はここ、という整理をさせると、なんの苦もなくどんどんやり遂げていく。ドイツ人のオフィスを眺めると、膨大な数のファイルが並んでいることが多い、最近はコンピュータがあるのでファイルがすくなくなる傾向にあるそうだが、それでもずらっと並んだファイルには、なんでこんなにファイリングする必要があるのだ、という印象さえ私は持った。しかし、このファイルの構成自体がまさにかれらの論理構造自体を反映したものなのである、と私は気がつくのにあまり時間はかからなかった。子は親のファイリング(なんと家庭でもファイルはずらっと並んでいる)を眺めながら、その論理構造を肌で習得していく。言語習得とファイリングの修練があいまって、概念の構造化・ツリー化は強力に推し進められる。その結果が、ほぼ自動的に論理的な文章をしたためる能力なのだ。
では、日本人の典型的な文章はいつも難解か、というとそうではない。翻訳も可能である。知人のドイツ人が例に挙げたのは、大江健三郎だった。あの人のドイツ語に翻訳された文章はとてもわかりやすい、という。私はそれは別の話だ、と言った。文学の普遍性は、感情の普遍性に依拠している。だからジャングルを歩く、いわば詩的な文章でも普遍性を獲得することができる。一方で論理的な文章の普遍性は習得によるものである。あるいは、論理に普遍性はそもそもない、といってもいい。意識して習わなくては論理的な文章は書くことが出来ないのだ、と私は言った。
結局知人はますます頭を抱えることになってしまった。では、論理的な文章の書き方をまず学べ、と彼に伝えなくてはいけないのか、そんな時間はない、うーん。実は彼は数年前にも同じ問題で頭を悩ませている。そのときも日本語からドイツ語への文章の翻訳で、日本の建築家の書く文章が、そのまま翻訳しただけでは意味が通らない、という問題だ。今回ほど緊急の事態にはならず、なおかつ日本人側がオープンな人だったので、改変もラクだった。
自分自身がこのジャングル文章的思考と、論理的思考の間で頭を抱えながら仕事をしたり文章を書いたりしているので、他人事ではない。日本のジャングル文章もまた、魅力的で開かれた可能性だ。それはそれで素晴らしい。否定することはない。論理的であること、論理的に文章を書く、というのは思考の問題ではなく、たんなるテクニックの問題なのだ、と私は思っている。大学院生だった8年間の間は、ひたすらジャングルから論理へ、の修行だったとも思っている。論理性の外で育った人間は、そうしたテクニックがある、ということ知り、自転車に乗るのと同様、学べばいいことなのだ。なにしろ、ジャングルで育った人間ならば論理という庭園を歩くことは本来造作もないことのはずなのだ。