データベース化?

読んでいる日記二箇所でなんとなくリンクした内容。
id:marita:20040808 ノート。
id:sujaku:20040807 学校給食を軸とした、ニッポン食文化変遷史 その40

必須アイテム、という言い方がある。TPOを勘案すればこのアイテムはどうしても所持する必要がある、というような意味なのだが、途端に私連想するのは富士山の登山客だ。富士山にやってくる客は、そのほとんどが普段は山に登ることのない人間である。したがって、山登りに不慣れな人間がとても多い。それ自体は別におかしいことでもなんでもないのだが、しばし見かけるのが過剰装備の客である。典型的なのは、チロリアンハットをかぶり、チェックのウールシャツにコールテンのベスト、膝丈のニッカボッカ、そのポケットにはウィスキーの入ったスキットル、ひざ下まで覆うニッカホース、ごつい皮・ビブラムソールの登山靴、キメは手にしたピッケルである。全てが新品、サラ。悪いことではない。心構えは正しい。Tシャツ一枚でペットボトル片手にフラフラやってきて、山頂近くで凍死しそうになるアホよりはよっぽど正しい。とはいえ、私は頭の中で「必須アイテム、ワハハ」と感じてしまうことを抑えることができない。とはいえ、笑うことはできない。我々はかくまで必須アイテムに犯されている。たぶんそうなのだ。

上記登山客は、必須アイテムを装着することにより、自らを登山者としてアイデンティファイする。同じことは下界でも起きる。私がしばし注意されるのは、学者なんだから学者らしい格好をして安心させてくれ、というようなコメントである。いまどき学者らしい格好なる必須アイテムはなんなのか、考えてもよくわからない。でもそれは、私が持つべき「やさしさ」なのだそうだ。

そこで私は突然南方熊楠を思い出す。自然科学雑誌「ネイチャー」に日本人で最多投稿数を未だにほこる生物学者だ。熊楠はいつもハダカだったという。来客があるとふんどしを締めるが、基本的にはヌーディストだ。ヌーディスト熊楠。熊楠だけに付随する必須アイテムである。

データベースが増大すると苦労が増える。これは今時の生物学者の誰もが経験していることである。判明した遺伝子の数ばかりが多くなり、機能がわからない。仕方がないので、遺伝子にコードされているさまざまなドメイン、すなわちある特殊化した機能をもつユニットを数え上げ、その組み合わせからその遺伝子の機能を推測しようとする。あるいは、関連する遺伝子をドメインの特性に基づいて、データベースの中から拾い上げようとする。かくして近年バイオインフォマティクスなる分野は急速に発展した。我々は遺伝子のレベルまでもがアイテム化されているのだ。それが正しい方向なのかどうかはわからない。必須アイテム、という思考法がその背後にあるのは、だけどたぶん明白だ。

私が大金持ちになったらどうするだろうか?時に私はそんな夢想をする。ランボルギーニミウラを手に入れることはまず間違いがない。でももう一つ間違いがないのは、優秀なバイヤーを一人雇うことだ。私の衣食住の好み全てを知っているバイヤー。私は店をうろうろ巡ったりカタログをひっくり返す必要が全くなくなる。バイヤーが常に私のための選択をしてくれて、常にそれは私の好みにあうものなのだ。バイヤーのもたらす品々に私は常に満足し、買い物のわずらわしさを知らずに食材の香りを楽しみ、包丁を入れ、肌触りの最高なパジャマで眠る。

id:sujakuの描く戦後史は、我々がひたすらわずらわしい状況におかれるようになったことを明らかにしている。しかもそのわずらわしさにはどこか、まといつく「必須アイテム」の匂いがする。生活の「必須アイテム」、それが選び抜かれた場所がコンビ二だ。コンビニが提供する超一般化アイデンティティに人生を託することができない人間が、わずらわしさから解放される道は二つしかない。ひとつは大金持ちになってバイヤーをやとうこと。もう一つはそのわずらわしさがすなわち生きることである、と考え直すこと、つまり真性オタクだ。

いずれの道をも歩めない人間はどうしたらよいのだろう?たぶん、必須アイテムの滑稽さを笑うシニカルなヌーディストになるしかない。