抱きつく

Kazanoさんの記事、”人とスキンシップ”。実は大脳生理学の松本元さんがこの話をよく引用していたので、人はたまに誰かに抱きつかないと衰弱するわけね、うんうん、と我田引水状態だったのだが、これだけ批判のある話とはしらなかった。いろいろリンクのある北沢かえるさんのほうの記事(スキンシップのない赤ちゃんは生きられない)をみると、松本さんが引用していた皇帝の実験はスキンシップというより、発達言語心理学的な実験ということらしい。うーん。言葉をかける→だきつく、に私のなかで都合よく変化していたらしい。

ヨーロッパでは久しぶりに会った友人と、うおー、ばさり、という感じで抱擁しあう。この「久しぶり」が曲者で、フランス・イタリア・ドイツでは”久しぶり”の長さが微妙に違っていて、ドイツは一番長い、と思う。以下はドイツの事情だが、観察していると抱擁は男ー女もしくは女ー女という組み合わせで多く生じる。男ー男はどうも確率が少なく握手でさらっと済ませることが多い。男同士で抱き合ってもなあ、クサイしゴツゴツした人間に抱きついてもなんの得にもならんというような気分もあるのかなあ(私はそう思う)、あるいは男同士でがしっと抱き合うのってなんかゴッドファーザーみたいじゃねえか、ということで、私は他のドイツ男にならってなるべく女性としか抱擁しないようにしている。かくなる抱擁にいつのまにやら慣れてしまった私は、久しぶりに会った女友達にはここぞとばかり抱きついている。いや、これがなんとも気持ちいいのだ。渡独当初からしばらくはどこか緊張して「抱擁させていただきます、失礼」、がしっ、という感じだった。だきついちゃうぞ、と素直に感情と行動が一致するようになったのはドイツに来ておそらく5年ぐらい経ってからだと思う。そんなわけで、今や抱擁大好き人間で、なんで日本ではこれやんないんだろうなあ、と少々さみしい。特に、ひさしぶりに会った日本人の女友達と別れ際に、思わず手を広げて抱擁しそうになっている自分を「日本でやったらセクハラ也、観念観念」などと思いつつ抑えている自分がなんか変態か私、とひとりつぶやくのだった。でもなんかやっぱり寂しいよな、と思いそのたびに上記、スキンシップは生命活動の要諦、という話を都合よく頭の中で引用していたのだった。「日本人よ、もっと抱きつけ」ということで。

手元に松本さんの本がないので引用できないが、スキンシップをめぐる実例は他にもいくつかあったように思う。豚の実験であったような気がするのだが。なにはともあれ、スキンシップがないと死ぬってのは極端だと私も思うのだが、抱擁は人生の幸福だ、と私は思う。