鯨談義

Ryuさんのところ圏外経由。戦争関連にならぶ大議論風発テーマだよなあ。確かに。ドイツ人といえば反捕鯨のハードコアである。とはいえ、議論になることは稀。というのもあちらもこちらもマジになってしまうので、かなり緊張感が高いテーマなのだ。

私は鯨がとても好きである。鯨の刺身などといったら、とるものもとりあえず駆けつける。味は牛刺によく似ているが、牛と違って臭みが少なく、あっさりしている。カルパッチョともまた違って、脂が少ない。上質のマグロの赤味に歯ごたえを加えた、とでもいえばいいだろうか。そんなわけで、私の場合はRyuさんと違って「鯨はおいしいのか」と聴かれたら、まず「とてもうまい」という。ドイツ人は絶句する。そもそもうまいものを食う、ということに関してドイツ人はとても観念的である。うまい、まずいという判断を自分の舌ではなく値段や意味によって判断しようとする。彼らにとってしたがって、うまいものを食う、というのは値段が高いものを食べる、にほぼ等しい、というケースがとても多い。あるいは「糖分をとる」ないしは「ビタミンCを補給する」という宇宙飛行士の食事のように食べることを考えている。もしくわ「ピエモンテのどこそこのワイナリーの白ワインだから、うまい」となる。単にうまいから、値段も意味も関係なしに食べる、という行動様式は、そのものがとてもデカダンに見えるのだろう。
そこでまず、うまいものを食べる、ということの意味を説明しなくてはならない。意味の文化を背骨にもつドイツ人には、どうしてもその意味を説明しなくてはならない。たとえ私自身はうまい・うまくないということに意味があろうがなかろうがどうでもいいと思っていても、である。事実、私は意味などなくてもいいと思っている。
最も納得されやすいのは、機能的に意味がある、ということである。私は快・不快と脳の機能の関係性を説明し始める。大脳の情報処理機能は、文脈依存的であり、なおかつその処理能力は快・不快に依存している。すなわち、快の状態にあるときに脳の機能は最大になる。これは脳の進化と密接に関係しており、始原に発達した快不快を処理する部分に、今のわれわれの論理演算をする知能は大きく依存しているのである。これらの話は受け売り(松本元さん)ながら、したがっておいしいものを食べる、という快は、我々が脳の機能を最大限引き出すためにはとても重要なのである、と結論する。
私の周りの知り合いの場合は、これで大体納得する。問いと結論が「鯨を保護すべきか」から「うまいものはくうべき」にずれているが、知り合いは大抵私の作る料理を食べて感激しているので、それ以上はなにもいわない。問題は、そうした私との関係がない人間の場合である。激論になる。「でもうまいものは、鯨以外にもあるではないか」とドイツ人はいう。私は、鯨には鯨に固有のゆずれないうまさがあるのである、と答える。ドイツ人はしばし立ち止まり、思い切ったように私に問う。「絶滅の危機がある動物を食べることに良心の呵責はないのか」と私に問う。私は、ない、と答える。その良心の呵責はいわば博物学的なコレクターの「もったいない」という心性である。そこにいる一頭の牛にしてもそれはかけがえのない一頭である。その牛を食べることはすなわち、世の中に二度とありえないその(that)牛を食べることであり、それが絶滅の危機に瀕している鯨を(そのこと自体がはなはだ疑問であるが)食べることとどう違うのか、と私は逆に問いかける。

**

というわけで議論は延々続く。平行線をたどり、まあ、そうゆうことなのだね、となる(納得できるはずがない。お互いに)。うーむ。

[追記]
鯨談議・昭和オマージュバージョンはこちらへ。id:sujakuさんの「学校給食を軸とした、ニッポン食文化変遷史 その18」。