草インテリ

知識人と大衆、っていう吉本隆明の世界で説かれると身構えてしまうのが、今の日本だと思う。これは小学校・中学校・高校で知識人の象徴である教師という存在が、我々を土足で踏みにじり、さまざまな形で10代の人間を蹂躙し続けてきたからだ、と思っている。おそらく10年上の世代にはわからないことだ。日本の義務教育は、文部省の管理強化とともに、とても荒廃したのだ。同級生や私を嫌味や暴力、人格攻撃でさんざんいたぶった数学教師が、卒業した後に女子生徒にスケベなことをして逮捕されたときの暗い爽快感を私は忘れることができない。だから知識人的存在に対して、教師的存在のえもいわれぬ生理的な嫌悪感と憎しみを重ね、拒否反応が抑えがたいのだ。たぶん、はてなで”知識人”をキーワード化したら、かなりひどいことになるだろう。

一方で私は、かなり前にid:flapjackさんのところで、私はドイツの小さな通りのロ−カルな人間関係の中で、インテリとして遇される、というようなコメントを書いた。日本でもそうしたローカルなコミュニティがあればいい、という文脈の中での発言だった。私ローカルな知識人なんです、という私の言葉は、bewaadさんがそのウェブサイトでわざわざ引用してくれて、日本ではもはやそうした存在はありえない、そうした存在を可能にするコミュニティも滅亡したのだ、復活の可能性もない、という説明も付けてくれた。え、でもbewaadさんは実際ネットで知識人としての役割を果たしているじゃん、と思ったので、そのようなレスを私は書いた。

知識人であることは身構えるような話でない。周りにいろいろな職種の人間がいれば、日々いろいろな本を読んでいたり、大学で10年以上勉強研究したりする人間は、インテリとしての役割を自然に担うのだ、ということも上記のコメントで書いた。このインテリ、知識人は、たぶん今の日本で言う知識人、すなわちザ・知識人とはそのイメージと役割が全く違うのだと思う。ザ・知識人は切れ味にしろ無頼にしろ、あるいは常人には信じがたい知識量にしろ、スタアであることを要求される。昨日書いた例に従えば、満員電車で背中にあたる乳房という現実を忘れさせる文庫本になること、あるいはJALのシートの液晶スクリーンの中に入ることである。一方でローカルな知識人はただの生活者だ。隣にいる。いわば、これが現実か、とよろこびつつ困ってしまう、背中にあたる乳房である。前者のザ・知識人の場合、「私は知識人と周りに言われてます」と宣言するには、スタアであるという恥知らずな自己認識を形成することと、1パラで書いたような理由で憎しみを引き受ける勇気が必要になる。だから、あんたどう考えても知識人ですよね、というような人間に対して、たとえ周囲がそう指摘したとしても、その知識人は永遠に後ずさりしながら、いえそんなめっそうもない、知識人だなんて大それた、といいつのることになる。単なる役割、あるいは職位なのに。

そんなわけで、昨日に引き続いてfinalventさんのところの今日付けのディスカッションを読んでいて私は思ったのだった。知識人、大衆という構図を、もう少し今のウェブコミュニティに合った言い方にしたらいい。草野球に習って草インテリ。ウェブが草インテリの存在を可能にしているのだ。finalventさんが「熱く」なったことに自ら言及し、自ら恥じてもうろく爺いだ、と反省までしてしまうのは単に、草インテリという存在や、草インテリによる日常的なチャチャ入れが日本から消えてあまりにも長かったからなのだ。知識人と大衆という、吉本の時代にはそれしかありえなかったかもしれない痛恨の大リーグボールを投げることはない、いいキャッチボールだ、と私は思う。