その1 システム特性としての「降りる」

降りる自由についてなんだけど、北田さんの文脈で私なりの理解をもう一度。以前id:svnseedsさんのところでコメントしたものの、次の文章をよくよく読んで、おお、オートポイエーシス、と思った。長いけど北田さんを引用。

①「自分が何をやったのか」ということと、②「自分がやろうとしたこと」とはしばしば違ってくる。「意図→行為」の図式にのっかると、①と②は一応一致する(すべき)ということになるが、①を自分以外のコミュニケーションの相手が(一応)定めるとなると、事は面倒になってくる。「アナタを侮辱するつもりがなくても、僕はアナタを侮辱することができる」。分析単位を意図と直結した「行為」ではなく、相手の行為を解釈しあう「コミュニケーション」とすると、責任と意図との齟齬は深刻になってくるわけです。社会の構成単位を「(相互)行為」ではなく「コミュニケーション」に見るルーマンに依りつつ、大庭さんは、責任を問い問われする「関係の一次性」の現場に軸足を置いて議論を進める。「わしゃ、そかんなつもりはなかったんじゃボケ」で済むと思っているようじゃ、①と②をイコールで結ぶ「近代主義の罠」―リベラリズムの名を借りた物象化論?―に嵌ってしまうぜ、そうじゃなくて、応答の「可能性の中心」を取り返そうぜ、というが大庭的な応答責任論だと、とりあえずいえると思う。

でもこれでは「応答しつづけること」自体が自己目的化し、責任のインフレーションが収拾つかなくなる。どっかで「ケリをつける」ことが必要なわけです。つまり、応答の場から「降りる」必要と自由と、そして時には義務すら生じてくる。僕は無条件的に「降りる自由」があるとは思わないけれども(もちろん東氏だってそんなことは言っていない)、「降りる」ことを無条件的に禁じる権利は誰にもないと思う。重要なことは「降り方」をどう調整していくか、だ。「降りる」という人をフリーライダー(ただ乗り)呼ばわりする人は、逆に「降ろさんぞゲーム」の道徳的暴力を理解していないだと思う。

ルーマンの社会システム理論は、マトゥラーナとバレラが、神経細胞電気生理学的研究の理論化の過程で提唱するに至ったオートポイエーシスというシステム理論に触発されて作り上げた理論。上の引用のキーワードである「行為」と「コミュニケーション」は、おそらく神経細胞の「入力・出力」と「作動」に対応している。入力、出力というのは電気生理学的にはごく普通のタームで、ある刺激を与えたときに、神経細胞がどんな電位・電流の応答を示すか、という出力を解析する。これは従来の社会学でいう、行為、になる。一方、「作動」というのは入力出力ではなくて、実際に細胞がシステムとしてなにをしているのか、ということ。ダイナミクスの状態関数、とでもいえばいいのか。刺激に対する応答の機械的な関数として細胞を見るのではなくて、作動しているシステムとして細胞を見るわけです。そうするとなにがいいかといえば、違った見方で細胞を解析することができる。「細胞には入力も出力もない」というような凝った言い方さえする。作動しているシステムなのだから、個体・環境という区別もなく、したがって入力も出力もない、というのは当然なわけです。これはルーマンでいえば、社会には行為はないが、コミュニケーションはある、ということになるのでしょう。すなわちそこに関係性の束だけを見る。

入力と出力、という考え方だと、一対一対応が前提になる。刺激したら必ず応答がある。刺激しなければ応答はありえない。とても硬い。細胞を機械のアナロジーで眺めている。でもオートポイエーシスとして眺めれば、細胞にはそのあり方としてもっと可能性が開かれるようになる。必ずしも応答がある必要はなくなる。あるいは突然出力が生じても、システムの必然的結果として眺めることができる。これは事実、実際の細胞により近い記述なのです。複雑な環境を生き延び、進化してきた細胞だから、必然的に機械とは違うシステムなのです。細胞には人間と違って自由や義務といった社会的カテゴリーはないのですが*1、現象として降りる(応答しない)は生じる。だから「降りる」には結構普遍性がある。これは生命のシステムに特有なフマジメさ、なのです(なんていったら怒られるかな)。これをパフォーマティブな応答とするかどうかは、まあ、個人の特性・能力だし、だからパフォーマティブかどうかということはあまり重要ではないと思う。要は降りる、ことは生命のシステムとして普遍的なのです。だから生物の実験は大変。コンスタントなデータがとれないわけで、苦労する。

というわけで、私の意見なのですが。東さんも北田さんも、降りる自由の説明として、それが保障されなければ、「無限責任が生じる」、といっていますが、これは「それじゃあ困るから」とパッチをあてて正当化しているように聞こえてしまうのかもしれない。たぶん、Hizzzさんとリリカさんがこだわる理由は、この説明がいかにも都合わせの正当化に聞こえるからではないか。だから上で説明したみたいに、降りることはシステムの特性である、とポジティブに評価するのがオートポイエーシスの概念に照らしてよりよいのではないか、と私は思う。で、こうした見方からすれば、本来ほうっておけば勝手に降りてしまう人々をなんとかしてひきとめよう、というのが社会の存在理由、協働性なのです。

*1:この点は実は細胞の自由意志とはいかに、ということでおもしろいけどいつかまた。