Lost in Translation

Lost in Translationリンク)を見てきた。フランスでもドイツでもなにしろ評価が高く、人に会うたびに、ところであの映画は見たか、という話になるので、無理矢理見に行った。感想。「ザ・ラストサムライ」に通じる問題を感じたけれど、この点はもやもやしているのでまたいずれ書けたら書きたい。一方で現場東京にいる日本人の映画監督は、なぜ東京を撮る事ができないのか、と思ったり、この程度の東京映像で評判になるのだったら、4年前にドイツ人グループが撮っていた東京の方が断然おもしろかった、なんて思ったり。

ドイツ人やフランス人の感想は次のようなものが多い。ストーリーはさておき、意外な日本の光景を見た、すなわち、七三分け、鼠色の背広、満員電車でマジメに会社に通う日本人ではなく、ゲーセンやクラブで楽しむ若者の姿、少々カオスな日本がとても意外なのである、とのこと。少し日本に興味のあるドイツ人・フランス人だったらこのぐらいのことは知っているのだが、その知識が一般化したのが今回の現象である。

しかしながらそれだけではないのだ。この評判の理由。ああ、もう少し書いてしまおう。以下ネタバレあり。といってもばれてどうのというタイプのネタでもないので書く。主人公のニューヨーク出身、ロスアンジェルス在住の若い女性が、夫の出張について突然東京に滞在することになる。夫は仕事にかまけて妻を顧みない。言葉が全く通じず、字も読めず、なおかつ文化的なコードもよくわからん、という状況で、ホテルに戻り、さめざめと泣きながら本国の友人に電話する。この程度で泣くか、と思ったが、世の中、言葉のわからん土地に放り出されたことのない人間が沢山いるのであって、こうして泣く思いをするのは実に啓蒙的である、ウンウン、などと思うのも束の間、基本的にこの映画は巨大なホテル(おそらくパークハイアット)を舞台に、そのホテルという安全空間、ガイジンバリアの内側からカオスな東京に少しだけ触手を伸ばしたりひっこめたり、という繰り返しに終始するのだ。ロスアンジェルスから、透明なチューブが太平洋を越えて、パークハイアットの空間に接続されている。そのガイジンバリアの内側からチューブを外に向けて少しだけ伸ばすがごとく、あるいは、あたかも泥刑(ドロボウとケイジという子供のゲーム。土地によっては刑泥だという)のように少しだけ東京という未知のジャングルを歩いて、あわてふためいて、急いでガイジンバリアの内側に戻るのだ。私はイライラしはじめる。なんだこいつら。要するに東京はサファリパークなのである。で、東京に住んでいる日本人は猛獣ならびに珍獣。これがなぜ今、この時点において評判となったのか。

911直後にドイツ人の知人とかなり激論したのだが、最終的に彼が吐露した感覚には少々愕然とした。「オレタチ白人は、狙われているんだよ。妬まれてるんだ!」。結局そうなるのか、と私はあっけにとられたのだが(いや、ドイツ人でもそんな人間がいるのである)、この恐怖心はかなり本気らしい。そんなわけで、自らを生物学的な白人ということではなく政治的に白人としてアイデンティファイする人間は、いまや敵だらけ、すなわちテロリストだらけ、という気分になるのだ、と私は了解した。知識として知ってはいても、目前でそれが展開されるのはまた別の強力な印象が私には残った。だからこそ、パークハイアットの微温空間に回帰してマッタリ安心する二人のホワイト・アメリカ人(二人はやがて東京という猛獣魑魅魍魎の蠢く都市トウキョウで、無人島に流れ着いた二人のように、はかとない恋心を交わす)、彼らが「テロリストに囲まれるアメリカ人」ないしは「跋扈するウィルスに悩まされるマイクロソフト」なり、善意にも関わらずどうして周りの人間はわかってくれないのだ、と切々と訴える姿にダブってしまったのだった。たぶん、この映画に夢中になった欧米人は、不安に満ちた世界の状況における自らの姿を重ねた、ということなのだ。

日本での公開が遅いようにも思うのだが、公開されたら少なからず多くの日本人が、私と同じような感想を抱くのではないか。外部として日本人が位置されるこの映画、状況を鑑みれば遅れさせる理由がないこともない。