id:gyodaiktさんの「アイロニストは自然主義であるべきか」がおもしろかった。

私の理解。「私はそんなことお見通しです」という他者への優越誇示。この優越をキープするため、自らの言説にあらかじめセイフティネットを張り、「あえて」ないしは「戦略的に」といった間投詞あるいは撒菱が頻出することになるのだった。かくして、メタ言説にはメタメタ言説があり、さらにメタメタメタ、上には上がある、ということになるのである。アナタはアタシの掌で踊っているだけ、ウフフ、ということだ。

それを読み進む私は、女に恨みはないが、悪い女に出会ったような気になり、別な意味のメタメタになる(いや、そんな女が傍にいたら「成熟と喪失」を参照しつつまさにメタメタだが)。アクロバット飛行ができない私は、その能力に深く感心。でも羨望呆然しているわけにもいかんので、貧者の手段はいかなるべきか、ということを思っていた。メタメタゲームを例えばポーカーとする。ポーカーフェースなりブラフなりで心理戦をどんなに重ねても、決めのカードを出すという現実的な瞬間がある。そのカードがたとえアイロニカルな表情を身にまとっていたとしても、カードはカードなのだ。アクロバットが不得意で不器用な人間は、言説と現実の邂逅点で行動するしかない。というわけで次の説明。

《論理的につめていく→論理によって語りえない「何か」が論理的に要請されることになる→その「何か」は論理的に要請される対象なのだが、機能的に等価な別の対象とは置き換え不可能(置換不可能性が「何か」の定義のなかに含まれてるから)→言葉を届かせるためにはこの「何か」への投企を「あえて」やる必要がある》

未分化なまま排除的に規定される特異点に対してコミットすることで、全体の論理に一貫性を持たせる、という作戦。この作戦が喧伝されている間は、メタメタアクロバットの真っ最中なので、通常の人間には介入不能である。でも具体的コミットメントが起きた瞬間にはこちらもカードを出すことができるだろう。それは例えば「オレは降りる」あるいは「腹がへったんで失礼する」「オレは死にたくない」といった主張かもしれない。これは先日svnseeds氏のところでコメントした話にも確かに通じる。

「魂」なんていわれたくない。いや、いわれてもいいけど説得される話ではない。人生三分の一海外の私の「魂」はどこに?ってことになるのだ。先日ちらちら読んでいた「挑発する知」で、海外に行ったけどしばらくすると、やっぱりなにかが違うと日本に戻ってくる研究者仲間の話から「愛国」とはなにか、と宮台さんが展開していた。そこを読みながら思ったのは、ほとんどの日本人は2年で帰るけど、文部省の予算の都合だろ、と思った。このあたりの事情は、先日id:sivadさん経由で知った「教育・研究の国際化」に関する調査を参照。

ところで、西洋的な理性や個人の意志を、社会的機能として限定することで読み解いた次の下りはかなりおもしろかった。マクロからミクロへの照射である。

それ以上遡行しえない行為の究極原因として、行為者の意志(自己言及的意図)を行為者に帰属し、かつ、その意志の有無認知にかんして行為者の特権性を容認すること(行為者性帰属原理)は、人間が他者と円滑にコミュニケーションを営むうえでとても便利な神話なのであり、おそらくは生物学的なlong-spanの進化の帰結として人類が手に入れた環境適応戦略の道具である。この生態史的な歴史を有する行為者性帰属原理が“存在への尊重感覚(②)”を我々の身体に根づかせたのだが、西洋近代は、この原理を“他者の有する排他的財・善の侵害に対する忌避感(①)”として観察-記述するにいたる(ロック的自由主義)。

ただし、これを

自己原因的意志の神話を信じることは、他者とのコミュニケーションを円滑にする(複雑性を縮減する)のであり、我々はいまだその神話以外に複雑性を縮減する「機能的等価物」を見いだすことができずにいるのである。

ないしは

おそらく西洋近代とは、こうしたPAをメタレベルから捉え返し、それを人間/人間以外の動物との区別の根拠にしようとする屈折した言説を生み出した社会なのである。

のように、状態を要請として置き換えていくところがあやういなあ、と思った。私は生物には分子から社会までのあらゆる階層で自由意志的なるものがある、と考えている。細胞の中の分子なんてそれこそむちゃくちゃだ。アルバーツの「Molecular Biology of the Cell」の美しい分子の絵なんてほとんど信じられないほどの、むちゃくちゃぶりである。それでここはちょっとなあ、と思うのかもしれない。生命科学者は階層の関係性を記述・解析する方法を腰を据えて考えなければ、と改めて思う。たとえば「細胞熱力学」が必要なのだ。