「武士道」にお呼びがかかる。

イラク派遣本隊隊長をつとめる番匠幸一郎1等陸佐が
「武士道の国の自衛官らしく規律正しく、堂々と任務の完遂に全力を尽くす」
と挨拶したとのこと。

懐疑派ノートより。
加藤哲郎のネチズンカレッジも参照。

それにしても武士道とはなんぞや。即答することができる人間が自衛官にどれだけいるのだろうか。

水戸・会津型(徳川)と葉隠との国家観のちがい
[引用]
これら徳川武士道の論理の前提には、国民の自由、財産を、君主が当然に上から制限できるという専制的な国家観があります。これが儒教的な武士道なのです。 ところが、こうした国家観に対して葉隠は、中世的な一揆、あるいは君民協約的な国を理想とし、「主君との一味同心」を標榜します。 この一揆や一味同心は、皆が盟約しあって一つの組識を作り、共同して事に当たる中世の観念です。 つまりは、水戸、会津葉隠を比べることは、正に国家観の違いを探ることにほかならず、極めて今日的な問題なのです

というわけで武士道なるものを持ち出すのであれば、葉隠武士道なのか、徳川武士道なのか、ぐらいは明確にすべきである。国家観がちがうのだから。

いや、もしかしたら、葉隠でも徳川でもなく、新規にハリウッド武士道なるものが出来たのかもしれない。国際社会における日本の位置が必要な場面で、単に武士道なるキーワードが「魂」のよりどころとして呼び戻されたということなのだ。現下における理念が不在であるが故に、埃をはたいて押入れから武士道を引っ張り出してきた。具合のいいことに、この一年「キル・ビル」だの「ザ・ラストサムライ」で、サブカルにしろトラカルにしろ武士道的なるものの賞揚がさかんに行われた。武士道なるものがなんであるか知らない我々は、ハリウッド武士道に感銘を受け、なおかつ日本的なるもののプライドをくすぐられて溜飲を下げた。新たなる武士道の登場である。