昨日の続き。
澁川さんにコメントをいただいた。
東浩紀さんの方で引き続き、議論を続行しました、とのこと。

私が当該イラストに関して思うのは2点。まず、本来槍玉に挙げるべきは小泉首相と石破防衛庁長官であって、自衛隊員の死を象徴的に持ち出すのは拙速にしてお門違いであること。この点は澁川さんと同じだと思う。特に、すでに「詠嘆モード」なのは場違いだ。これは次の点にも関連する。「戦争な気分の醸成」が、以前私が書いたゴレンジャーの罠そのものなのである。私は引き続きこうした安易に「お約束」な報道姿勢は批判したい。カタに嵌まるからだ。あくまでも小泉・石破を批判せよ。

でも次の点が問題なのだ。「降りる自由」と、それに対する「多数支配の原則重視」について。後者のロジックは「朝日のイラストは反民主主義的である」という点に要約されることになる。では、あるイラストが反民主主義的であるかどうか、という判定は厳密に客観的におこなうことができるのだろうか。あくまでも感情的なのではないか。私はこの点を危惧する。民主主義における妥当性が多数決(なおかつ気分的に)で決定され、糾弾されることに私自身がなったら、とてもではないがたまらない。辺見庸の表現「鵺のようなファシズム」がまさにこのようなことを指している、と私は思った。だからイラストの妥当性、ないしは自衛隊員の家族の感情を逆なでするかどうか、といった議論に、私は関わりたくないし、却下する。この曖昧さはいくらでも拡張可能なのであり、万人がその糾弾の対象になりうるからだ。こうした議論の果てに「あなたの研究は反民主主義的です」、さらに極端には「あなたの存在が反民主主義的」という糾弾の可能性も想定できるだろう。